春 旅立ちに寄せて
私が何がわかるわけでもない。
長い道のりのほんの少しに触れただけ。
よくもわからないものが、口を開くべきではない。
そうした意見を耳にすると、世の中の大抵のことをよくわからない自分には、話すべきことなどない。そう縮こまってしまう。
それでも私は何かの出来事や人の気持ちに触れるたびに、自分はどう思うかを反芻している。
それが一体何になるか?
人から見たら有益性はないし、出過ぎたことだ。だから何。の極みだと思う。
それでも自分の時間と心を傾けることができるものに出会えたそのことが私にとって実りなんだ、そう考えている。
だから、感謝を込めて。
私の知らない世界を垣間見せてくれて、また新しい視点を与えてくれた出会いに敬意を込めて、書いている。
バクゼンさんが岐路に佇んでいる。
私のnoteにバクゼンさんがコメントをくれるようになったのは、私がnoteを真剣にやり出して割と早い段階だった。
毎日のように柴犬のアイコンは温かい肯定の言葉を携えてやってきた。
当初、毎日来てくれることに実は戸惑いがあった。
習慣化すると、来ない日が怖いのだ。
気に入らなかったかな、つまらなかったのかな。
そうやってバクゼンさんに来てもらえるnoteを
書かないと。と思っている自分を見つけては、
違うでしょうと戒めた。
誰かにすごく褒めてもらえると嬉しい。
だけど、褒められるために書く文章はつまらない。
私の人生のようだ。褒められたい。認められたい。頼りにされたい。そのことに寄せるような生き方を年柄年中繰り返してきた。
身に沁みすぎて、簡単には抜け出せなかったけれど、私はnoteを書くことで、少しずつ少しずつ
薄皮を剥くように、余分な気持ちを削ぎ落としている。
誰かに評価されるより、自分自身の納得へ。
毎日書いていくことで、バクゼンさんが例えば
しばらく姿が見えなくとも、そのことに右往左往しなくなった。
それは、私がバクゼンさんを知ったことも大きかった。
バクゼンさんは当初、自分のnoteをあまり書かない人だった。
コメント欄がバクゼンさんのnoteだね。そう伝えるほどに、人のnoteをより深くより温かく、書いた人が思い及ばぬ良い場所へ連れて行くのが得意な人だ。
時に、楽しいnoteには軽快でユーモラスなコメントも得意で、心の柔らかさには敬服している。
コールよりレスポンスなバクゼンさんが書いたnoteを読んで、私は何というか衝撃を受けた。
文章の裏側には人生がある。
言葉を紡ぐ、その人それぞれのやり方には
道のりがあり眼差しがある。
こういうことなんだ。大きな衝撃の後に訪れたのは腑に落ちるという感覚だった。
その後もnoteでバクゼンさんの心の動きや
ご家族のエピソードに触れることで、私には
学びや気づきがもたらされ、積み重なっていった。
バクゼンさんは生活として、
私は仕事として、
生きることとは?支えるということは?に
向き合っている。
そのことで互いの立場や役割を推しはかり、やりとりできるものがあったのではないかと思う。
私はバクゼンさんから沢山のものを受け取っている。
そして、バクゼンさんに手渡せたものも確かにある。そう感じている。
それは傲慢に聞こえるかもしれないけれど。
私は私にそう感じさせてくれているバクゼンさんの懐があってのことで、ギフトだとも思っている。
私は、バクゼンさんの長男さんとnoteで出会い
生きること、そのことに純粋に命を燃やすという
ことがもたらす気づきや、
その命に寄り添う仕事をすることの意義を感じることができた。
生きることの中で味わうということは
味覚だけではなく、感覚全てで受け止めることが
可能であると思い至った。
視野を狭めることなく、知識に囚われることなく、その人の快や幸の可能性を見出していく未来をもらった。
長男さんは生きることで、会ったことのない私にこれほどまでに新たな気づきを与えてくれた。
きっと新たに生きる場所となる、馴染みの場所でも、私と同じように生きることの支援に携わる職員の皆さんに、何かを与えて、何かを受け止めて
健やかに自分の生を燃やしていかれるだろう。
バクゼンさん、この岐路は振り返ればきっと最善のタイミングなんじゃないかな。
バクゼンさんもご家族も元気で、心も健やかで
そんな時にこの選択が訪れたことは、幸せだと
私は思います。
悲しみや焦燥の中で忙しなく、致し方なく急カーブを曲がる人生も沢山見てきました。
バクゼンさん、長男さんの自立に乾杯!
そして、バクゼンさんの新たな生活にも
幸多きことを。
おだんごはいつだって応援だんごです。
お気持ちありがたく頂戴するタイプです。簡単に嬉しくなって調子に乗って頑張るタイプです。お金は大切にするタイプです。