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歪みと既視感

私がその本を知ったのがどこかは、もう忘れてしまったのだが、TSUTAYAでその本を見かけた時に、購入を迷わなかったことを覚えている。

あれ、これ、あの本だ。 買おう。


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これを購入したのは2020年の7月で、私が2020年の春にnoteを始めるきっかけにもなった。


多分ネットニュースから見つけたこの本は、noteというプラットホームで、作品を発表後に暫くしてから拡散、評価され出版されたものだということを知った。

山口県の小さな集落で一晩に5人もの人が殺害された事件。

犯人の家に貼られた「つけびして 煙り喜ぶ 田舎者」という川柳。

独り歩きする事件の概要はすべて噂話から発生していた。

私は、この、真実の上にいくつもに重なる「噂話」が、真実を食い尽くし、

真実を乗っ取る可能性にものすごく興味があった。

情報のあふれる時代に生きている。

わからないことは検索すれば、すぐに答えらしきものを手に入れることができる。

いつでも、怖いなと思っている。便利=怖いと思っている。

何かを簡略化し、スピーディーにスムーズにすることで切り捨てられたものの中に、本当は大切なものが含まれているのではないかと思う。

生きることは取捨選択の繰り返しだ。

便利に頼り、流れる情報を信じていれば時に困ることはないのだが、

生きる力が弱まる感じがしてしまう。人間として時に立ち止まり、考え、疑い、流れをいったん自分のわきに流して見つめる時間が必要だと思っている。


山口のこの集落ほどではないが、私が住む地域も少子高齢化が進む山間部で、地域のつながりも濃い。

あそこの人は今日は仕事が休みじゃないか。どこかに出かけたみたいだ。

あそこの家の畑のあの作物はだいぶ弱っているな。肥しが悪いから

近所の○○さんちの子は、××高校落ちたみたいで、別に行くらしい。


食卓で上がる話題のほとんどを私はどうでもいいと思っている。

誰が休みでも、畑がうまくいかなくても、近所の子供の進学先も興味がない。

それでも、誰かの家のエピソードをさもさも見てきたかのように、そこにいたかのように語るのは、別に我が家だけの話ではなく、ここかしこの家庭では普通のことだ。

誰かに興味があるということで、地域の力が成立している。相互扶助、絆、震災以降は特に、ここだから、顔の見えるつながりに救われたということも少なくない。

しかし、その裏側には、ひそひそと他人の家庭を評価したり、干渉したりする噂話は欠かせない。

私の日常にもいつも潜んでいるあまたの噂話が人を追い詰め、結果命を失う、命を奪うような狂気になることに不思議はないと感じていた。

その過程や心の動き、人間関係などに興味があった。

物事はいつだっていい面ばかりではない。人間の営みはそういうものだととらえている。

つけびの村は、ノンフィクションである。著者の高橋さんは、事件のあった金峰村に足しげく通い自分の足で場所を歩き、人と出会い、話を聞き、考察を深めていく。

取材は途方もない時間を要していた。そこに暮らす人々の中には、普段なら敬遠したいような独特な価値観を持った方もいる。それでも事件の核に迫りたいと近づいていく高橋さんの身を心配したり、労ったりしながら、村に流れる混沌とした重く湿った空気の中を、時に一緒にさまようような気持ちでこの本を読んだ。

私は、本の抜粋や、説明が苦手だ。読みたい人には不要だし、興味のない人にも不要と思う。

読後感想文であるが、まず、最後まで読んでも私の気持ちは何も解消はしない。

答えはわからない。わかりやすい展開や、受け入れやすい感情は用意されていないことを、自分が引き受けるまでに時間がかかった。

2回読んで納得した。わからないことこそが真実である。

そして、悪い人というくくりで分類される人は登場しない。

ただ出てくる人全員が歪んでいると感じた。その歪みは私にもある。

歪みは反響する。歪みを認識せず、特に問題にもせず、同じように歪んでいれば、それはもしかしたらまっすぐに錯覚するのかもしれない。

誰かの悪口を言うとき。心は歪んでいる。

誰かがそれに呼応する、さらに追い打ちをかける。心は歪んでいる。

しかし歪みが歪みで呼応するとなぜか、それこそがまるであたかも正しいような錯覚を起こす。

やっぱりあのひとはおかしいよね。その共感が連鎖して、その価値観が選択される。

仲間外れはそうして出来上がるのではないだろうか。

悪い人が仲間外れを作るのではない。普通の人の歪みがスタートなのではないか。私はそう考えている。

そして、仲間外れにされることが当たり前な人間だと、評価された人の人生もまた歪んでいく。

少しずつ、少しずつ何かがずれていく。人は密にかかわらずとも人に影響を与える。気持ちは伝わり、邪険に不当に扱われることが続いていけば、心はもう元の場所に帰れなくなることもあるのだ。

山口で起きたこの事件は、別に特別なものではないと感じた。

人の弱さ、醜さ、歪み、それらに身を任せていれば簡単に同じような混沌に落ちていく。

人はいつだって自分を見失わないように努力して、立ち止まり、振り返らなければ、誰かの悲劇は他人ごとではないと強く感じる作品だった。

テレビやネットで流れる情報を簡単にうのみにして、朗々と意見を述べたり、訳知り顔をするような人を、私は実は信用していない。

流している人にも取捨選択がある。選ばれたものと切り捨てられたものを考える。

与えられたものの中から、私たちは選び取らなければならない。

正義や万能を唱える者も信用していない。人は弱く、怠惰な生き物だから。

噂話ほど軽快で罪深いものはない。そう感じている。

それを確認出来て自分を戒めることができた。そのことがありがたい。


生きる上で、自分の胸に問い直す、自分の在り方、生き方を振り返るきっかけになった作品です。

高橋さんの書くことへの情熱にも敬服しました。書くことを仕事にすることの誇りや執着に心から感動もしました。

もしご興味ありましたらぜひ。

お気持ちありがたく頂戴するタイプです。簡単に嬉しくなって調子に乗って頑張るタイプです。お金は大切にするタイプです。