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好きなの選んで


例えば、あいみょんが好きだ。とだれかが言う。


あいみょんのデビューから1曲も聴き逃すことなく


全てを愛している人もいれば、


あの曲とこの曲が好きだよ。という人もいる。


あの曲とこの曲が好きな人が、


あいみょんが好きよと言っても普通のことだ。


noteも同じことだ。


全部を読まなくてもいいし、全部を知らなくても
いい。


気が向いた時に、目にして、あーこれ好きだなあ。で全然いい。


noteを始めて、しばらくはフォローしている方のnoteは全部読んでスキを押していた。


それがフォロワーたるもの。みたいなサムライ魂があった。

変に義理堅いところがあり、美点であり濁点とも
思う。


そうしているからには、そうしてほしいが1ミリもなかったか?と言われれば、嘘になるからだ。


毎日読んでくれるひとが支えであったし、力にもなった。


続けていく中で、読みに行けなくてごめんなさい。と言われることが増えた。


ああ、そんなことないよぉ。と思う。切に思う。


私もそれからはサムライ魂は、タンスにしまっている。時に必要なため断捨離はできない。


義理が自由を侵害していると感じたからだ。


noteでしなきゃならないなんてことはない。


あいみょんのアルバムを一から最後まで通して聴かない日もある。


カーステレオから流れる


裸の心を3回リピートするのもザラだし、


時々、君はロックを聴かないをほじくり出して


聴きたい日もある。


あいみょんだけじゃなくて、スピッツを聴いたり


嵐を聴いたり、時に洋楽を流したり、心の自由の


まま、音楽を楽しむように、noteもそうあれたら


いいなあ。そうだよね。と思う。


だから、おだんごさん、読みに行けなくてごめんねなんて言わないでね。と思っている。


読まなくてもいいんだよ!
読まれなくても書いていけるようになったよ。
それぐらいには成長したんだよ、実は。


そして、そういう人の殆どが、私自身、もうがっつり信頼している人で、毎日をただ生きていてくれたらそれで嬉しいという存在だ。


先日、マツコデラックスさんがテレビで


真の幸福は、他者を介在させずに悦びを得られることじゃないかしら。と思ってる。


と、ちゃんみなさんという23歳のアーティストの方に話していて、なるほどなと思った。


私はもちろん発信する限り、反応をもとめてはいるのだけれど、そこに執着しすぎずに書くことが
できるのじゃないかな。と思っている。


誰かはこなくなる。

誰かは離れていく。

また、誰かに出会う。

また、誰かを知る。

そういう循環に入っているなと感じる。

読まれないnoteでよいということではない。

いつも読んでくれなくても大丈夫だし、

もしも、あなたの好きなnoteがあったら嬉しい。


自分が自分のために綴るnoteが、誰かの毎日に気づいたら、ふと寄り添うnoteであれたら、最高!と思っている。

#note
#心の変化



お気持ちありがたく頂戴するタイプです。簡単に嬉しくなって調子に乗って頑張るタイプです。お金は大切にするタイプです。