PNMJ かいてん
じいちゃんの店を譲る発言から、
忙しなく時間は流れた。
刻一刻と迫るその日は、
待ち遠しいとは程遠い焦燥にまみれていた。
本当に自分の店を持つこと。
夜、寝る頃になるとそのことに漠然とした
不安が逡巡した。
夢を見る。
誰もお客さんが来ない。
汁の味が落ちたと噂が流れる。
そもそも結局は、じいちゃんの添え物だったと
ひそひそと聞こえる声。
勘違いしていた。
できる気になっていた。
一人前の気になっていた。
朝、起きると汗をかいている。
目の脇にふと流れる水滴は汗か涙か。
朝の始まりにため息をつくような、そんな日が
何日あっただろう。
じいちゃんやにこちゃんは、俺の葛藤や不安に
気づかないふりをしていた。
にこちゃんは、毎日シーツを洗ってくれていた。
それは、俺の不安を洗い流してくれていたんだろう。
汗も涙も翌日の夜には、気配も跡形も
まるでなかったことのように、
洗濯機を回して、日に当ててくれていたんだ。
ありがたいなと思っていたが
ありがとうと言ったら、全てが溢れてしまいそうだった。
にこちゃんは、俺にありがとうを言わせないためにいつもこっそり洗って、帰る前にシーツを敷いて、掛け布団をわざと起きたまんまに小細工していた。
今ならわかる。
ありがとうと言われたにこちゃんも黙っていられない気持ちだったんだろう。
にこちゃんは、潰れそうな俺を心配して
潰れそうな自分の胸のうちを、押し付けるような
ことはしたくなかったんだろうな。
俺は毎日、毎日、整わない心を取り繕いながら
2人のために柏手を作る。
そのジュースをうまいと飲んでもらえる限り
今日もいけるかなと思えた。
2人は毎日、最高だと笑顔を見せてくれた。
自分の心が例えば乱れていても
誰かのために、何かを作ることには
実はさほど支障がないと気づいた。
自分のことと店のことは違う。
自分のためではなく、誰かのためになった時
自分の中にまた別の力が湧いた。
そうやって汁を作ることで、
誰かの笑顔を見ることで、
自分が背負うものの重さや責任よりも
自分が背負うものの価値や喜びに気づき
背中に馴染んでいくのを感じた。
覚悟というのは、悲愴ではなく希望だ。
何もやりたいことなどなかった。
自分が生きていることが無意味に思えた。
そんな白黒にしか見えない世界にいた時には
見えなかった世界が 今 ここにある。
自分で選んだ道ではないのかもしれない。
与えられたものを受け取るだけだと人は囁く。
だけど。本当にそうか。
与えられたものを受け取ることを選んだ俺は
俺の人生を生きているんだよね。
毎日毎日、してきたことは
嘘ではない。
幻でもない。
毎日毎日が今の俺ならば。
やっぱり、俺にはこの店が全てで
俺の汁を飲む誰かに出会うことが全てだ。
じいちゃん、店の名前、決めたんだ。
おお、なんて名前だ。
PNMJ。頭文字なんだ。
ポップな甚平のニュースなまねっこジュースか？
そう。あたり。じいちゃん、頭の回転上がってんな。
いい名前じゃねえか。俺へのリスペクトがこもってるな。
だろ。俺はさ、じいちゃんへのリスペクトを忘れたことは、一度もないからね。
ありがとう、じいちゃん。
おお。こちらこそだよ、りょうた。
店、継いでくれてありがとな。
いい店にしろよ。
PNMJ開店の朝。
馴染みの常連さんが顔を見せてくれ、
次々におめでとうをいい、
駆け出しではない、近いや遠いを
飲んでいって、いってらっしゃいを
背中に背負い、それぞれの場所へ向かっていく。
いってらっしゃいをいう係を
置いてけぼりだと思っていた時期もあったな。
誰かの背中が眩しくて
自分が情けなく思えた日もあった。
だけど今。
誰かに元気のきっかけを提供して
幸せと健闘を願い、送り出す自分を
悪くないと思っている。
向こうから歩いてくる人がいる。
ああ。
よかった。
おかえりなさい。
ただいま。
りょうたの柏手、近いでお願い。
つむぎさん、柏手に変わる新メニューがあるんだ。それ、試飲お願いしていい？
おー！テイスティング！
OK、任せて。
丁寧に作った。最後にぐっと手を合わせた。
つむぎさんは、いつものようにゆっくり
じっくり身体の隅々まで染み込ませるように
飲み干した。
りょうた、これは。
握手だね。
そう言った。
じいちゃん、おれはまだまだだったよ。
自分の手渡すものだけで完成させようとしてさ。
受け取る人の力を信じていなかったんだよな。
俺はこのジュースをエールと名付けていた。
手は引かなくとも、背中を押したい。
しかし、つむぎさんは握手だと言った。
そうか、俺は今、ジュースで手を繋いだのか。
お互いの健闘を讃えあい、共にあること。
それが、俺のジュースなんだ。
つむぎさん、採用！！
握手は、裏メニューです。
本当？やったね！！
りょうた、店名イカしてるじゃん。
りょうたのまんまだね。
PNMJ
ポジティブネガティブミックスジュース
つむぎさん、店名じいちゃんには内緒だから。
えっ、どういうこと？
耳もとで正解をいうと、
つむぎさんはほにゃらあと笑った。
おわり
お気持ちありがたく頂戴するタイプです。簡単に嬉しくなって調子に乗って頑張るタイプです。お金は大切にするタイプです。