生きる意義
尊敬している人がいる。
両親の恩人であるその人に、私も折を見ては
ご挨拶に伺う。
私の父は、子供の私から見ても情に厚く、縁に
重きを置く人だが、それはこの人との出会いにも影響を受けていると思う。
先日、長く療養されていた奥様が亡くなられた。
奥様にも子供の頃から、目をかけていただき可愛がって頂いた。
奥様は千と千尋の神隠しにでてくるおばあさんに似ていた。
優しいだけではない。こだわりと厳しさとが漂っていた。
それでも、可愛がってもらっていることをきちんと受け取っていた。
お線香を上げさせていただくために、父と訪問した。
大きな大きなお屋敷に暮らしている。
庭には蜜柑がなっている。
私は会長さんと呼んでいる。
会長さんは、私のことを随分と気にかけてくださっていた。
自分の故郷に程近い地に、20歳で嫁ぎ、夫の両親と同居することや、子育てをしながら仕事をすることなどを、幾度となく、立派だよ、頑張っているね。と声をかけてくださった。
会長さんは、インパール作戦と呼ばれた第二次世界大戦のインド侵攻作戦に従事し、生還された経験をもつ。
その後、故郷を離れ荒地を開拓して、農業や畜産業を経て、事業を展開させて成功させた後、地域貢献や人材育成に私財を投じてこられた。
私に、戦争の体験や開拓の困難を、明確に話して聞かせてくださった数少ない大人の1人である。
会長さんは、いかに苦しいか、いかに辛いかを語るのではなく、
いかに助けられ、いかに支えられてきたか。を説く人だった。
そのことが私の心を開放的にした。
会長さんが語るビルマの情景やそこに暮らす人の優しさは、私の中にしっかりと息づいている。
例えば今。
北朝鮮からミサイルが発射される時。
北朝鮮の市民の人を思う。私のような一般的な普通の人や、山村で情報もなく暮らす人を思う。
互いに幸せでありたいと思う。
何を呑気な。何を馬鹿げたことを。と思われても仕方ない。
そう思っているのだから。
敵の兵士に追われ命からがら逃げている時に、匿ってくれたビルマの人達は、寝台の下で息を潜める私のことを探しにきたイギリスの兵士を「ここにはいないよ。日本人はいない。」と追い返してごはんを食べさせてくれたんだよ。
と、会長さんは仰られ
その話が、今も私の頭に残っている。
お前、会長はもうお前の知っている会長じゃないぞ。
父から出かける前にそう言われた。
お前のこともわからないし。だからそう思って会ってくれ。
会長さんは99歳になられた。
95歳の時にお会いして、書を頂いていた。
掛けた情けは水に流して
受けた恩は心に刻め
その通りに、ビルマ、今のミャンマーに未来の幸福をプレゼントするために教育支援を行う活動を今もされている。
生きては帰ることができず、あの地に眠る戦友が、安らかに穏やかにあるためには、ミャンマーの皆さんの平和があってこそ。それこそが自分にできる恩返しであり、生きる意義である。
その会長さんの生きる姿勢は、いつお会いしても心が震える。
久しぶりにお会いして、にこやかでたおやかな紳士であることはお変わりはなかった。
気取りがなく、ユーモラスな方で
奥様の遺影がステキですね。と私が伝えると
写真がいいんじゃないよ。実物がよかったんだよ。と
真顔で言って、私を慌てさせて喜んでいた。
今回の訪問時に、会長さんは私のことをすっかり忘れていても、丁寧に対応下さった。
そしてまた一つ。
お土産を。
街の名士であり、数々の功績をお持ちの方のため、沢山の人の前でお話しする機会もあったが、ある時ミャンマーの大統領や閣僚の皆さんの前でご挨拶したそうだ。
その時のエピソードトークである。
司会の方から長生きの秘訣を質問され、
頭をからっぽにすることです。
そう答えたんだよ。お茶目に笑い、手をパッと頭の脇で広げた。
とかく頭にどれだけ何かを詰め込んでいるか?に価値を置く、たくさんの知識人を前に堂々と
頭を空っぽにしておく。と宣言したら。
ウケたそうだ。
沸いたんだよ。と得意げな会長さん。
悩み、不安は頭におかない。とどめない。
悩まず解決すりゃいいんだよ。
不安なんか考えたって仕方ない。
だからね、ただ感謝してるんだ。
今、生きていることに。
周りに恵まれていることに。
だからね、病気もくっつかないんだよ。
悩みや不安がないからね。
自分に悩みや不安を留めず、目の前で手刀を切るマネをする会長さん。
痛快極まりない。
ボケ老人のところにわざわざありがとう。
玄関まで見送る会長さんに頭を何回も下げてお暇した。
庭の樹木は高く伸び、紅葉の葉が空に映えていた。
みかんの橙色が眩しく見えた。
世の中には素晴らしい人がいます。
お気持ちありがたく頂戴するタイプです。簡単に嬉しくなって調子に乗って頑張るタイプです。お金は大切にするタイプです。