心当たりの関係
赤い傘の向こう側。
声をかけて振り向いた顔は、なんとなく随分前から知っていたような気持ちがした。
振り向いたその人のnoteが、自分の気にいる味わいであることも、随分前からどこかでわかっていたんだ。
noteの街で時折、アイコンやnoteの醸し出す空気感に、きっと仲良くなれるだろうなと確信めいた気持ちが湧くことがある。
きっと仲良くなれると思っていて、それでも声をかけるのを躊躇うことはよくある。
それは、何というかうまく言えないのだけれど
すでに世界観や人間関係が確立されていて、
私がお邪魔していいのかな?と臆してしまうことだったり、自分自身がきちんと向き合う準備が整っていないことが理由に上がるが全てではない。
私にとって、石元みとんさんは随分前からその存在を知りつつ、遠巻きに見つめていた人だった。
みとんさんと仲良くしている人の中には、私も仲良くしている人が沢山いた。そんなことも、距離を縮めることに思慮深くなる一因だった。
友達の友達には失礼があってはならないなと思う、変に律儀なところもある。
たまたま読んだこのnoteが、私を惹きつけた。
やっぱりなあと思った。やっぱり、好きだなあと。
女友達との絶妙な空気感を、正直な言葉で綴られていた。
自分の気持ちの流れや、立て直しの仕方は身に覚えもあり、ひどく共感した。
誘われたい?誘われたくない…ような。
会いたい?会いたくない…ような。
どこか硬質で捉え所のない、自分自身でさえ持て余すようなわがままとも不可思議ともいえる気持ち。
それを胸やけしない、消化の良い文章で綴られていた。
このnoteにこんなコメントをした。
心当たりのある気持ちでした。と。
実は、その心当たりこそ私が書きたいnoteのスパイスに当たるものだと、その瞬間に気づいたのだ。
誰かの心あたりに触れる文章。
それは、私ごとを書いていながら、どこかで誰かの日常と触れ合うことや、誰かの意識に溶け混じりあうことを夢見る私のとっかかりでもあった。
いいnoteを書く人と仲良くなることは覚悟がいる。
世の中にはこんなに文章が上手い人がいると、
また打ちのめされる。
自分がたいしたことがないことを、自分の文章の跳躍力のなさをまざまざと感じては落ち込むことを繰り返す。
いいnoteを読むとは。私にとってはそういうことでもある。
それでも読みたいと思う。それでも知りたいと思う。
私にとって石元みとんさんをフォローするとは
そういうことだった。
思い切って押した、フォロー。
それは、もしもしと声をかけるような気持ちだ。
振り向いたその人は笑っていた。
私の伸ばした手を、きゅっと。
みとんさんは握手してくれた。
随分と遠回りをしたが、私は握手のその先を知っているような気も同時にしていた。
今朝、みとんさんのnoteを読んで、どうしても私のnoteを読んでほしい。とコメントをした。
そんなことあります?そんな図々しいこと(笑)
私という生き物は、握手をしたら俄然一気に詰める。懐の隙間に飛び込むのは得意なのだ。
確信があった。
許してくれる。必ず。そして、わかってくれる。
みとんさんの心当たりに触れる気がしたのだ。
あの日のお返しができる気がした。
石元みとんさんとは。
心のひだの柔らかいところに染み入る言葉を紡ぐ人。
日常から遠くの言葉を操るのではなく、台所や居間に転がる普段着の言葉で、心当たりを表現する人。
仲良くなれるのは、随分前から知っていたんです。
だって、心当たりの関係だから。
みとんさん、図々しいでしょう?(笑)
お気持ちありがたく頂戴するタイプです。簡単に嬉しくなって調子に乗って頑張るタイプです。お金は大切にするタイプです。