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アビゲイル・シュライアー「トランスジェンダーになりたい少女たち」を読んで/本の話

アビゲイル・シュライアー「トランスジェンダーになりたい少女たち」を読みました。

正直な第一の感想は、読むの疲れた、だ。
著者の問題提起と主張については、わたしは一考に値すると思った。

まずは、読むのが疲れた理由から書く。

初っ端から出鼻をくじかれた。この本へ寄せられた賛辞が数ページに渡って掲載されていたからだ。、萎えてしまった。導入や序章ってわくわくするところ。その本の世界へかかる橋であり入り口である。それが、さぁ読むぞとめくったら出迎えたのは羅列された賛辞たちだった。この賛辞を読んで、自分がこれから読む本が素晴らしいものに違いないと期待を高める人もいるのかもしれないが、わたしは違った。

あの、、、わたし、今から自分で読んで、そして考えますので。と思った。

本文に入ってからは、欧米のジャーナリズム系の本あるあるだけども、ひたすら次々に個別具体例が列挙されてるので、読めば読むほど、また出たよ具体例、もういいから、、、と話の筋よりも気になり、どんどん読むのがしんどくなっていった。〇〇州の〇〇に住むキャサリンは〇〇な両親と〇〇な環境で・・・・・、〇〇大学で〇〇の博士号をとったジムは〇〇な見た目で・・・・という類のやつ。
読み終わった今、誰一人の名前も組織の固有名詞も覚えていない。
リアリティや信憑性を高めるために、ある程度詳細な情報を載せておきたいという意図があるのだろうけど、こんだけ出てくると、うんざりしてしまう。

同様の理由で、マイケル・モス「フードトラップ」は読むのを中断してる。これは、ほんとあるあるなんだけど、どうにもこうにも。

そんな感じで、本筋の外側でげんなりはしたものの、著者の考察や主張は一考の価値ありと思った。
確かにセンシティブな話題。個別具体例は主張を展開するために恣意的に選択されたのだから、バイアスがかかってるのは当然で見方によっては偏って見えるだろう。
だけど、思春期という不安定な時期に決断することへの憂慮、それを慎重に判断する土壌がないまま医療的介入へのハードルが低くなる状況に警鐘を鳴らすものであり、ヘイトという印象は受けなかった。

著者は、西欧諸国で性別違和を認識する状況がこの十年で激変したことを調査の動機にしている。それまで、思春期になって性別違和を訴えるのは、幼い時からそれを感じていた子供達で、そのほとんどが男児であった。しかし、この十年で女児が現れただけでなく、性別違和を訴える大多数を占めるようになったという状況だ。                                           

思春期という心も体も揺らぎ不安定になりながら、自己のアイデンティティを模索する子供から大人への過渡期。同世代の人間からの視線が世界の全てになる時期でもある。自己と他者を比較し、同じだと安堵する一方で違わないことに自分らしさの不足を感じで物足りなく思い、かといって違いが大きすぎると変なのではないかと不安になり疎外感と焦燥を感じる。

そんなままならない自己を持て余す時に、存在感をもって立ち現れてくる昨今話題の性別違和という概念。

SNSやコミュニティへの傾倒。トランスをカミングアウトした時の”仲間”からの賞賛。

本人の意思尊重と希死念慮への危惧から、疑念や否定が提示されにくく肯定一辺倒な風潮と容易になされる医療的性別移行。

ホルモン投与をやめたからといって戻らない体。取り戻せない二次性徴期。

コミュニティから弾き出されること、トランスというアイデンティティの喪失など進むと引き返しづらい状況。

同性愛と性別違和の混同。

SNSから距離をとったり生活環境を変えたことでディトランディショナー(性別移行を中止した人)の存在。

などなど。

日本には厨二病という言葉がある。思春期特有の揺らぎとそれに伴うちょっと痛々しいくらいの逸脱した行動や思想をさし、誰もが通る道という前提で共有されている言葉だ。
大人になると、あの時はなんであんなだったんだ?と思う自分がいたりもする。思春期だけでなく、大人になってからもそういう時期はあったりして、その時期は後に黒歴史なんて言葉でパッケージされて笑い話になったりもすれば、いつ思い返しても穴があったら入りたくなったり、いつまでも心のどこかに薄ぐいら影を残したりもする。
そういうふうに、人にはちょっとなんかそうなっちゃっててそんなことしちゃった、みたいな自分でも説明のつかない時期があるのは事実だ。

その人の人生はその人のもの。本人の意思は尊重されるべきだと思う。一方で、人間の発達段階には自分で自分ことがままならない時期があり、年長者の介在が有用なこともある。

性自認には、トランス以外にもさまざまなものがある。それを客観的、科学的に判断する指標はない。だから否定する根拠もない。自認するまでには本人もそうとうな葛藤があったであろうこと、そしてカミングアウトするのに甚大な勇気を要することを踏まえると、肯定する以外の選択肢は霧に包まれ
ていく。
そして否定することの難しさが肯定一辺倒の流れを作り、慎重に判断する機会を喪失させてしまう。そういう流れの中では、一度表明した性自認を取り消すこと、医療的処置を進めて後悔したことを公にするのも憚れる。それを見過ごしていいとは思えない。

その点に一石を投じた意味で、勇気のある書籍だと思う。

思春期の揺らぎ、アイデンティティ、同世代の視線、大人の介入、医療のあり方、その辺りのことを考えがなら読んだ。色々な感想や意見はあると思うが、それぞれが読んで、まずは少しでも考えてみることが大事じゃないだ老ろうか。


栫彩子(カコイアヤコ)関西が拠点のフリーのフローリスト。 店舗を持たず、受注制作でアレンジ・花束を制作し宅配便でお届けしています。書くことも仕事にしたい。。有料マガジン「たゆたうものを編みたくて」でエッセイを書いています。趣味は読書と英語と3DCG。


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