小さな枠と大きな窓
今日も皆、俯いてる。首を傾け、その小さな枠の中に夢中になり、ひたすらに指を動かしたり目玉が忙しく動く。駅のホームや電車の中で見慣れた光景。いつからだろう?昔と今で大きく様変わりしてると、わたしは度々体感する。
私が制服姿だった頃、その「小さな枠」は別の形をしていて、皆が必ず持っている訳ではなかった。持っていてもそれは主に連絡手段としての存在。だから、会えば会話が始まり、互いに目を見合ってた。「話す」という事が何より楽しくて、そこからあらゆるものが生まれ、繋がっていた。
私は小さな枠より「大きな窓」を好む。思い起こしてみたら、物心ついた頃からの頭に浮かぶ光景は、窓から見た景色、窓の外で起きていた事が多い。あの頃住んでいた家の窓、学校の窓、電車の窓、、あらゆる景色と匂いまでもが瞼の裏、鼻の奥に浮かんでくるのだ。まさに、体が感覚を覚えている。
朝と夕、電車に揺られて窓の外を眺めていたこと。大切なかけがえのない時だったと、今改めて思う。前の日にあった出来事、今日一日の予定、悩み事、色々思い浮かび、ぼんやりそれらを考える。帰宅する電車の夕暮れ時、車窓から見る街並み、鉄橋を渡る時のきらきらとゆらめく川の水面。夕焼けの空。今でも鮮明に思い浮かび、それらは何より心をあたためてくれていた。
懐かしいもの、古いものに惹かれる私は、便利で新しいものに溢れたこの現代ではマイノリティなのだと思う。それでも時代の流れで携帯電話を持っていたり、パソコンも時折使う。でも、最低限のことしかできず、あまりのめり込むことはない。時代遅れになるとか取り残されると言われたらそれまでだけど、そもそも流れに乗るつもりもなく、自分がこれと思う道で生きて良いじゃないか、と思う。
コロナ禍だったか、新聞の記事で「不便益」という言葉を知った。不便益とは、不便だからこそ得られるよさの事。その記事を読み私は共感した。そうそう、大切なことってこういうこと。そう実感したが、きっと分かり合える人はそう多くないだろう、と心に蓋をした。
私ができることは、子どもたちに「便利から生まれる価値が全てではない」ということを伝えていくこと。時には何も持たず、窓の外を眺めてほしい。きっと、そこから見えてくるもの、生まれるものがあるに違いない。目には見えない何かを繋いでいきたい。
ドラえもんのどこでもドアも、何もいらない。
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