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最後の一羽

「あなたの人生に最も影響を与えたクリエーターは誰ですか?」という問いで始まる投稿を見て、うーーーん・・・誰だろう・・・と考えてまず浮かんだのが「池澤夏樹」だった。

中学だったか、高校だったかの国語の教科書に池澤夏樹の文章が載っていて、何度も読み返していた。
池澤夏樹の文章からはイメージが広がる。
何度も読んで、自分の中でイメージを広げた物語はもう元の形とは違っていると思う。
池澤夏樹の文章を通して心の中で何度も凧揚げをしたし、スケールを上げていく地図のジャンプ遊びをしたし、そして、ある鳥にとても親近感を覚えて癒されていた。

その鳥は、最後の一羽になってしまった絶滅危惧種の鳥。

もはや同じ種を見つけることができないその鳥の抱いているうっすらとした違和感に、その頃の自分が感じていた違和感を重ね合わせていた。
同じ種がいないなんて、どんなに寂しかろう、どんなに怖かろう、どんなに孤独だろう・・・と想像を膨らますものの、テキストに書かれている鳥はあまりそんなに悲劇的でもない。

ーー
自分が最後の一羽だと知らないから。もしも知ってしまったら絶望してしまう。
自分が最後の一羽だと知らないから、薄々抱いている違和感が何であるのかを理解せずに済む。
自分が最後の一羽だと知ってしまった時には、「同種に会えるかもしれない」明日が消えてしまう。希望が消えてしまう。
でも、この鳥が「最後の一羽だ」と知っているのはこの物語では作者だけなのだ。この鳥がそのことを知ることはない。
知るよしもない鳥は、今日も同種を探す。そのことが逆にとても残酷で、この鳥が哀れだった。
当時の私は、鳥の物語からそんなことを読み取っていた。
ーー

この鳥の物語は、自分にとっての不都合な真実にうっすら気づいている人の物語でもある。

「不都合な真実」を知ることで「絶望」してしまう・「生きる希望」が奪われてしまうと思っていた私は、「自分の真実を知ってはいけない」という信念体系ループをお手本のように辿っていた。
このループは、苦くて甘くて、切なくて切実で、麻薬的で、ループであることすら忘れさせる。ある種の恋と似ている。

「自分が最後の一羽だったとしたらそれをあなたは知りたいですか?」

どうでしょう?

「知りたいけど、知りたくない」が、当時の私だった。

でも今は違う。
自分が最後の一羽だったとしたら、私はそのことを知りたい。

ーーー

当時の私はこの鳥のどこに共感していたのだろう。

「同種がいない」ということなのだろうか。
「同種がいないことを知らない」ことなのだろうか。
「同種がいないことを知らないながらも、うっすら勘付いている」ことなのだろうか。
「同種がいないことにうっすら勘付いており、それでも同種を探してしまう」ことなのだろうか。

度々この国語の教科書の池澤夏樹のページに戻ってきては、この鳥に共感し、私はうっすらと何かに勘付いていたはずである。
「(客観的事実としては)知ることはできない」何か
「(客観的事実としては)知ることはできないが、うっすら勘付いている」何か
「うっすら勘付いているものの『知ってしまってはいけない』」何か
「『知ってしまったら絶望してしまう』」と思っていた何か
まやかしでもいいから、なかったことにしたい何か
まやかしでもいいから持っていたい『期待』(カギカッコ付き)
例えその『期待』(カギカッコ付き)が叶う日が来なくてもいいので、せめて持っていたい『期待』(カギカッコ付き)

『期待』(カギカッコ付き)を絶対に手放したくなかった私により、「うっすら勘付いている何か」はひっそりと沈められていった
ーー

カギカッコ付きの『期待』がやっかいだ。
やっかいでありつつも、それこそが人間界の醍醐味なのかもしれない。
「みんなと同じでいたい」「普通でいたい」「同じだと思って安心したい」「レールに乗っていたい」「はみ出したくない」「『ちゃんと』できる私でいたい」

この鳥を哀れに思いながら、この鳥の置かれた状況に寂しさを感じながら、
同時に淡々と今日も生きているその鳥のあまり悲劇的でもない様子に私は多分とても癒されていた。

ーー

「うっすら勘付いている何か」は、どんなに沈められても静かにビーコンを発する。
20年以上経って蓋を開けたその「何か」は、拍子抜けするほどあっけらかんとしたものだった。
蓋を開けるまでが怖かった。
蓋を開けて、注視するのも怖かった。
「この何かは私を破壊してしまうかもしれない」という目で見ると、とてつもなく怖いものに見える。
けれど、その「怖い」というレンズを取っ払って、いろんな既成概念とかを一旦横に置いて自由な目で見てみると、その「何か」は全く違うものに見えてくる。
破壊されるのは「私」ではなく、「既成概念」の方だった。
「既成概念、クソ喰らえ」の気概で見てみると、その「何か」は私が当たり前に持っていたものだった。
昔から知っていた。
「なーーーーんだ」「そうか、そうだよね」

最後の一羽であろうがなかろうが、淡々と空を舞う鳥。
周りがどうであろうと、「自分がどうあるか」と言うことには全く関係がない。
私の中に、そんな鳥がずっと生きていた。
最後の一羽であることを全く意に介さず、のびのびと自由に舞う鳥がずっといた。

「ぜーんぜん大丈夫」だと知っていた。
みんなもきっと知っているはず。
「自分はぜーーんぜん大丈夫」だってこと。
自分の真実を受け入れた時に、本当の物語は始まる。

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