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母の日に「内省」という名で、ごちゃごちゃ考えている。

昔から、私はやることは何でもそれなりにやってのけるタイプだ。
これには理由がある。
そもそも、苦手なことは極力やらなかったからだ。
小学校低学年時に習っていたピアノ、
折り紙や裁縫といった手先の細かい作業、
パズルなどのコツコツ組み立てていくもの、
数学や理科といった数字や記号を扱う思考は、
早々に「私の人生には必要ない」とバッサリと切り捨ててきた。

得意なことに力を注ぐ。
苦手分野はスルーする。
そんな風に生きてきた。

そんな私が今、日々、格闘しているものがある。
……育児だ。
母になって5年以上経つが、一向に慣れない。
年数の問題ではないのだろう。
母になってから、
自分はこんなにもキレやすい人間だっただろうかと驚いている。
日常的にイライラしていて、
自分のことが嫌になることも多い。

私は、どうやら「母」に向いていない。
笑顔で優しく子どもに接している他のお母さんを見ると、
眩しく感じ、
私もあんな風にできたらいいなと思うのだけれど、
その5秒後にはすぐに声を荒げている。

私は、やっぱり「母」に向いていない。
自分でも痛いほどよくわかる。
今までの私なら、そう思えば、すぐに切り捨ててきた。
……けれど、育児はそうはいかない。

毎日起床直後から、
「おかぁさーん」と呼ばれ続け、
一息つく間もないままバタバタとした一日がはじまる。
娘たちを幼稚園に送り届け終わった朝9時の時点で、
一日の70%ほどの力を使い果たしている。
そして、週末は平日よりも、もっとしんどい。

でも、どんなにしんどいと思っても、
転職するわけにも、
とりあえず辞表を書いて休息するわけにもいかない。
私はもう死ぬまでずっと「母」なのだ。
いや、死んでもずっと「母」なのだ。
それならば、もうこのアイデンティティを受け入れ、
楽しめるように、私なりの「母」をやっていくしかない。

「彩にはいつも設定したゴールがあって、それを諦められないよね。」
と、夫は言う。
そうなのかもしれない。
自分にとってはそれが当たり前で、
これまでそうやって生きてきたけれど、
別人格の娘たちを相手にする育児において、
そんな私の思考回路と行動パターンを
適用させることがそもそも無茶なのだ。

母の日に長女が補習校で作ってきてくれたプレゼント
幼稚園で作ってきてくれたプレゼントは、小さな箱の中にクッキーが3枚。
クッキーの中にはサプライズメッセージが。

母の日、
長女は幼稚園や補習校で作ってきてくれたプレゼントを、
嬉しそうに渡してくれた。
そのプレゼントを受け取りながら、私は内省する。

うまく「母親」ができない私を彼女たちはどう見ているのだろう?
そもそも私の理想の母親像って何だろう?
具体的に何をすれば、そうなれるのだろう?
そして何を実現したら、自分を認められるのだろう?

…そう考えている時点で、
またいつもと同じパターンをなぞっていることに
自分で気づき、思わず苦笑いをする。

「色々考えすぎなくて良いのに。」
とも、夫は言う。
私の頭の中には、
灰色の雲がうっすらとかかっているけれど、
窓の外を眺めると、
スカッと晴れ渡った水色が目に飛びこんでくる。

考えすぎて曇るなら、
考えないで晴れている方が、
きっと何倍も良いだろうな、と思う。

もっと肩の力を抜こう。
きっと色々考えすぎて、段取りを組もうとするから、しんどくなるのだ。
じゃあ、肩の力を抜くためには具体的にどうしたら良い?
……そうして私はまた考え始める。

結局、私は「内省」という名で、
ごちゃごちゃ考えるのをやめられない。
そういうのが好きなのだから、仕方ない。
たとえそれがしんどさの原因であったとしても。

つくづく自分が面倒だなと思いつつ、
そんな私は私のままで、
自分のなりたい母親像を、「母の日」に考えている。

去年、幼稚園から持って帰ってきた母の日のプレゼントはイチゴの苗だった。
それから毎日、私が水をやり、イチゴの実がなると長女が嬉々として食べるという、
もはや何がプレゼントなのかよくわからないシステムだった。
そんなイチゴの苗は、今年もまた新しい芽を出している。


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