【短編小説】メンソールのお姉さん(後編)

 どうしてここに、友梨佳さんがいるの?
「おまえ、だれだ?いつの間に入ってきたんだよ!」
 義父が、大声で叫び散らす。暗闇でよく見えないけれど、そこにいるのは友梨佳さんに違いないはずだった。
「友梨佳さん!」
 助けてくれた。友梨佳さんが助けてくれた。
 私は立ち上がり、手探りで友梨佳さんの近くに寄り、彼女の肩に触れた。すると、氷のようなひんやりと冷たい。……どうして?

「誰のせいで苦しんだと思ってるのよ。死ね! おまえも死ねっ」
 友梨佳さん?
 口汚く罵り、尻もちをついた義父ににじりよる。
「なんなんだよ…、何の話だよ、お前誰だ…っ」
 言葉が途中で切れて、義父の影が大きく揺れた。低い低い声で、人を呪う言葉が聞こえる。
 その時、窓の外に稲光が走り、部屋の中が明るく照らされた。
 露わになった友梨佳さんの横顔は憎しみで歪んでいて、首には、赤黒い輪の痣が生々しく、くっきりと見えた。
 思わず、大声で悲鳴をあげる。
 と、同時に部屋の明かりがついた。
 そこには、鬼のような形相をした友梨佳さんが、義父の首を両手でつかみ、締め上げていた。
「やめて! 友梨佳さん、やめて! 死んじゃう!その人、死んじゃう」
 無我夢中で二人を引き離そうと友梨佳さんに訴える。すると、はっとしたように私を見て、にっこりといつもの優しい笑顔を浮かべた。
 手を離された義父が床に転がり、酸素を求めて大きく咳き込んで背中を丸めてのたうち回る。
 その派手なリアクションにほんの一瞬目を奪われている間に、友梨佳さんは、いつの間にかいなくなっていた。

 トントン、とまた誰かがドアを叩いた。
「すみません、大家です」
 聞き覚えのある大家さんの声がして、私はきつねにつままれた気分の中、ドアを開けた。
「遅くにすみません。叫び声が聞こえたものですから……。大丈夫ですか?」
 ちらりと部屋の中を見て、床に転がっている義父に視線を止めたので、
「あ、父親です……」
と、慌てて言った。
「ああ、お父さん……」
「いま! 今変な女が急にきて!」
 飛び起きた義父は、必死の形相で初対面の大家さんに訴えた。
「変な女? 大丈夫ですか、何かあったのですか?」
「あ、いえ……あの、千葉さんがさっき来てちょっと……」
「千葉さん?」
 大家さんは目をむいて、私を見た。
「はい、2階の住人の、千葉友梨佳さんですけど……」
 大家さんは、俯いて小刻みに震え始めた。
「許してください……。騙すつもりはなかったんですが、どうしても借り手がなかなか見つからないから……」
「え?」
 大家さんは唇を引き締め、覚悟を決めたように頷くと、
「千葉友梨佳さんは、ずいぶん前のこの部屋の住人です。5年前、ここで首つり自殺をされて亡くなりました」

大家さんの話によると、友梨佳さんは5年前この部屋に住んでいて、自殺をした。バイト先の妻子ある人と付き合っていたけれど、子どもができてしまい、堕ろすこととなり、予定していた留学も親からの支援も受けられない状態になったしまったそうだ。しかも、罪の意識からか子どもの幽霊を見ると言うようになり、精神的にノイローゼの状態だった。大家さんが、部屋に様子を見に行った時には、シャワールームで首を吊って死んでいた。

その後、部屋をリフォームしてからまた新しい人に貸していたけれど、だいたいみんな、「だれかに見られている気がする」と言って、すぐ部屋を出て行ってしまう。
そこで、破格の値段で貸し出しするようにし、事故物件であることも何度か他の人が入ったあとだったので、黙っていた、とのことだった。
「冗談じゃねーよ! 俺は帰る」
と言って、義父は怒ってタクシーを呼んで帰ってしまった。
「あなたは、どうしますか? 取り急ぎ、母屋の方でよければ今夜からでも一部屋お使いいただくことができるのですが……」
 恐縮した様子で、大家さんはそう言ってくれたけれども、私はその申し出を断った。
 一人ぼっちになった部屋で、私は友梨佳さんの名前を呼んだ。だけど、友梨佳さんは現れなかった。
 夜が明けて、嵐の去った直後にランドリーにも行ってみた。その夜に、ベランダにも行ってみた。
 次の日も、その次の日も。
「さみしいって思ってる人は、視えるんじゃないの……?」
 友梨佳さんは、二度と私の前に現れることはなかった。

 それから、私はその部屋に高校卒業まで住み続けた。無事に志望校へ合格して、晴れて堂々と一人暮らしをするようになって、部屋を行き来する友だちが増えた。彼氏もできた。
 そして私も、あの時の友梨佳さんと同じ二十歳になった。

「あ、いたいたー。教務課に呼ばれたたでしょ。特別奨学生の結果どうだったのよ」
 喫煙所でタバコを吸っていた私の元に、同じゼミの麻美と京子がやってきた。私はピースサインを返す。
「無事合格。あー、よかった。これで大学中退しなくてすみそう」
「突然親が離婚でしょ。弟も小さいんだっけ。奨学生試験に入学後に受かる人なんてまれでしょ。すごいがんばったね」
「うーん。うちのお母さん初めての離婚じゃないからメンタルは心配してないんだけど。でも弟がまだ小さいから、なるべく金銭的な負担だけでも減らしてあげたいかなと思って」
「親孝行もんだよ。えらいよー」
「へへへー」
 笑いながら、メンソールの煙草を灰皿に落とした。
「さー次の講義はA号館だよ。知ってる? A号館の怪談」
「やめてよ、私そういうのだめなのよ」
 にやにや笑ってみせる麻美に、京子はきゃあきゃあ言いながら耳をふさぐ。
 戦前に建てられたA号館は、戦時中に軍の負傷者の臨時診療所を担っていたらしく、夜になると軍服を着た人が見えるとかなんとかの噂がある。
「幽霊はね、寂しいって思ってる人が視えるらしいよ」
 二人はきょとんとしたように私を見る。
「えー、なにそれ。じゃあ、私視えちゃうじゃん。この中で私だけ彼氏いない私なんて寂しすぎてみえちゃうじゃん」
「じゃあ、霊能者とかみんな寂しいひとってことかあ。でも明らかにそんな感じじゃない人もいるよね。あ、それはインチキってこと??」
 笑い飛ばしながら、噂のA号館にたどり着く。昔ならではのセンスを感じる建築デザインの建物は厳かだけれど古く、階段の陰には言いようのない不気味さを感じる。
 その片隅を、じっとみつめている男子学生がいた。もしかしたら、彼には何か見えているのかもしれない。

 友梨佳さんのことを、今でもふと思い出す。幽霊と呼ぶには、あまりにも生々しい存在感だった。寂しさと将来の不安で押しつぶされそうな時、癒してくれたかけがえない人だった。
メンソールの匂いを嗅ぐたび思い出す。たとえ、この先彼女の年齢を追い越していっても、私のなかではいつまでも「メンソールのお姉さん」として残っていく。

終わり










 


 




















駆け寄ろうとした私は、いつもと様子の違う彼女の雰囲気に気圧されて、振り向いたまま立ち上がることもできずにいた。

外のは暴風に続いて雨音も聞こえる。稲光で


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