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日本アカデミー賞優秀賞の『新聞記者』がアマプラ映画『ザ・レポート』に勝てない理由

チープな映画が「優秀作品賞」

あの『新聞記者』が、日本アカデミー賞で優秀作品賞・監督賞などを受賞した。日本アカデミー賞は本場(米)のアカデミー賞とは違い、ノミネート作品はなく、優秀賞と最優秀賞に分けられ、名の挙がった作品すべてが「受賞作」となる。

そんな前置きはともかく、「あの程度の作品が…」と絶句したのは、もちろんこの映画が政権批判をしているからでも、東京新聞・望月衣塑子記者がモデルになっているからでもない。映画としての完成度が低いとしか思えなかったからだ。それについては以前も書いた。

もちろん、日本では政権批判的という以前に、政治をテーマにした映画を作ること自体、ハードルが高いのは分かる。政治的発言が「色がつく」として忌避される風潮はある。その中で演者たちは熱演していたといえる。だが悲しいかな、本格社会派作品とはいいがたいチープさに彩られていたのである。

だが、この「チープさ」は、『新聞記者』制作者や、この映画をテコに政権打倒へつなげようとする人々だけの責任とは言えない。今の日本が生み出せる「社会派」の限界がここにあったといえる(かもしれない)からだ。

『ザ・レポート』が示すもの

それは、アマゾンプライムで配信中の『ザ・レポート』という映画を見たことでより強く感じられた。

『ザ・レポート』は、9・11後のアメリカで、対テロ戦争を名目に行われたCIAの「違法な尋問」、つまりテロ容疑者とみなされた人物に対して行われた「拷問」についての「レポート」だ。

主人公の民主党上院議員スタッフであるダニエル・J・ジョーンズ(アダム・ドライバー)が630万ページという膨大なCIA文書を数年にわたって精査し、ついにその「違法な尋問」は「拷問」である上に、「有効な情報収集手段ではなかったこと」を突き止める。重いテーマであり、拷問シーンはあるものの、派手なドンパチはなく、ただひたすら、資料に向き合い、信念を貫き通す主人公の姿が描かれている。

もちろん、本作も「製作者が見せたいアメリカの姿」ではあるだろう。しかし事実に基づいて書かれた本作の仕上がりは、『新聞記者』とは比べるべくもない。

生活を犠牲にしてただひたすらに事実を追い求め、飛び道具は使わずひたむきに文書と向き合う主人公、党を越えて「アメリカとはどんな国であるべきか」を考える議員、政治的駆け引き、関係者の間に生じる軋轢と葛藤、CIAとFBIのライバル関係、危険を冒してでも主人公に事実を伝えようとする人たちの姿……。

それぞれがそれぞれの信念に基づいて動き、それによって誤り、別の人の手によって国家の暗部を明るみに出す。そのプロセス一つ一つの、本来地味なはずの行為が積み重なって一つの映画となる。それこそが観客に「君が忠誠を誓う国家とは何か」や「個人としての正義と国家における正義とのせめぎ合い」を強烈に訴えかけてくるのである。

もはや「不真面目」の領域

片や『新聞記者』はどうであったろうか。現実に起きた問題を取り込み作っていったにもかかわらず、演出もストーリーも、チープとしか言いようがなかった。何より、『表現者クライテリオン』2019年11月号で、元日経新聞記者の松林薫氏も指摘しているように、主人公の女性記者はほとんど「取材らしい取材」をしていない。

さらに映画は加計問題をモチーフとしながらその実態に迫ることもできなかっただけでなく、なんと作中の某学園への便宜は、細菌兵器開発を担う拠点づくりのためだったというトンデモの結末に落とし込んでしまった。

なぜこんなことになるかと言えば、『ザ・レポート』は、CIAの拷問にせよ、それに関する文書の存在、そして事実を突き止めるために数年を費やした主人公も、すべて実在している。片や、『新聞記者』が基にした加計問題はどうだったか。モデルとなっている望月記者はこの問題に関する報道でどのような成果を上げたのか。映画が、実は「取材をしない新聞記者」を取り上げたのなら、それは実在するといえるかもしれないが。

そもそも映画にすべき「事実」が見つかっていないのだから、チープにしかなりようがない。

『ザ・レポート』が折に触れて提示する国家や組織とは何か、国益とは、国家安全保障とは何か、それに対する個人としての正義とは何かといった根幹のテーマを『新聞記者』も描こうとしてはいた節があり、役者は迫真の演技をしていたのだが、悲しいかな「お笑い内調」の様相を呈した。意味ありげに登場する「黒い羊」のイラストには「いい加減にしろ!」と怒りを覚えるほどだった。やることなすこと幼稚であり、もはや不真面目の域なのである。

しかしそれは、メディアや日本の社会や政治そのもののチープさや幼稚さ、不真面目さを表しているともいえる。

悪いのは『新聞記者』だけか?

その点から、もう一つ指摘しておかなければならない。『ザ・レポート』ではCIAが文書や職員のメールのやり取りを隠したり、「全て主人公に公開している」と言いながら後になって公開制限をかけて隠蔽するなどして調査を撹乱する。破棄した文書もあったかもしれない。だが、数年かけて調査しなければならないほどの膨大な文書は残されていたのである。だから事実を浮かび上がらせることができた(ただしCIA関係者は責任を取るどころかその後昇進している)。

日本の場合はどうだろうか。森友学園問題は、もちろんCIAの大型の問題とは比較にならない「問題」であるものの、文書の改竄が明らかになった(もし安倍政権下の新聞記者を主役にした映画を作るなら、まだしもこの改竄を突き止めた記者を主人公にした方がいい)。近畿財務局と森友学園側の交渉記録もその後多くが公開されたが、重要な日付の記録は未公開のままだ。「大した改竄ではない」と言わんばかりの政権擁護論も飛び出したが、論外であろう。

国家安全保障に無関係、どうでもいいような「桜を見る会」の名簿すら、「残っていない」と繰り返すのが日本の政府なのである。この程度の名簿すら出せない(精査に堪えられない、出した上での参加者のプライバシーの保護すらできない)国家では、のちに歴史を文書によって精査することさえできないのだ。

日本では二重、三重の意味で、『ザ・レポート』のような映画は作れないと思い知らされた次第である。『新聞記者』だけが悪いのではない。

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