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【文フリ出品までの記録7】アマチュア翻訳の葛藤ふたたび

文学作品を翻訳するとき、登場人物の名前をどう訳すか。そのまま音を写しとればいい、と思いきや、そう単純にいかないときがある。名前に、ある種のニュアンスが込められているような場合だ。


例その1: ドリトル先生


例えば、「ドリトル先生」。

「ドリトル先生」は原文では Doctor Dolittleで、ドゥーリトルなドクターつまり、あまりなにもやってくれないお医者さんのようだ。石井桃子(1907〜2008)いわく「むりに日本流に訳したら『やぶ先生』ということになる。
 このドリトル先生をもとにしたロシア語の子供向けの本をコルネイ・チュコフスキー(1882〜1969)が書いていて、この医者は「アイバリート(アイボリト)」先生という名前になっている。「アイ(ッ)」というのはロシア語でびっくりしたときなどにでる感嘆詞で、「バリート」というのは「痛い」という意味なので、「ア、イタタッ」という感じの意味になる(松谷さやかが「あいたたせんせい」と訳し、樹下節が「アいたた先生」と翻訳している)。医者なのに「アいたた」先生だなんて、いまひとつ頼りがいがなさそうで、可笑しくてとぼけた感じが出ていて、とても良いと思う。

奈倉有里 『ことばの白地図を歩く』創元社、2023年、太字強調は筆者

ドリトル先生のロシア語版「アイバリート先生」をそのまま音訳して「アイバリート先生」とするか、そこに込められたニュアンスまで汲んで「あいたたせいせい」「アいたた先生」とするかは、翻訳者の判断になるのだろう(「アイバリート先生」でも誤訳ではまったくないのだし)。
ただ、「アいたた先生」が登場するお話なんて、なにかとんでもないことが起こりそうでワクワクする。名前からして「アイバリート先生」よりも親しみを覚えてしまう。

例その2:『犬の心臓』


もう一つの例。ミハイル・ブルガーコフの『犬の心臓』という作品がある。

人間の脳を移植される犬が主人公で、その犬の名はシャリクという。犬のシャリクは脳の移植後だんだんと人間になっていき、自らをシャリコフと名乗る。

この「シャリク/シャリコフ」を、増本浩子/ヴァレリー・グレチュコ訳では、「コロ/コロフ」と訳している。

なぜコロ/コロフにしたのかは、訳者によるあとがきでこう説明されている。

「シャリク」はロシアではよく犬につけられる名前で、「小さな玉」という意味がある。コロコロ太った犬が「シャリク」と呼ばれるといった描写が何度か出てくるので、この言葉遊びを日本語でも再現できるよう、あえて「コロ」と訳した。猫なら「タマ」という訳がぴったりだっただろう。

ミハイル・ブルガーコフ 『犬の心臓・運命の卵』 増本浩子/ヴァレリー・グレチュコ訳、新潮文庫、訳者あとがきより抜粋。

犬の名として日本の読者に違和感なく受け入れられ、なおかつ元のニュアンスも伝えられる「コロ」。すばらしい訳だと思う。

私もそうありたい。そういう訳をしたい。

…とは思うが、「いずれはそういう訳ができるようになりたい」であって、実のところ今は、積極的にこういう訳(意訳?)を試みるのはためらってしまう。

「アイバリート先生」を「アいたた先生」としたり、「シャリク」を「コロ」とするのは、名人芸の域である。
キマッているからいいのであって、中途半端ではかえって作品世界を壊してしまう(だからドリトル先生を「やぶ先生」と訳す人がいないのだと思う)。

中途半端になるくらいなら、「アイバリート先生」は「アイバリート先生」としておきたい、というのがアマチュアの本音だ。

しかしながら、犯罪を目撃してしまったら見て見ぬふりは心が咎めるのと同じで、名前に込められたニュアンスに気づいてしまったら見て見ぬふりは心が咎める。ここに葛藤が生じる。

ウソの組織のマコト氏


私は次の文フリ京都に出品しようと、ある作品の翻訳に取り組んでいる。

その作品に、偽協同組合の議長「ポードリンニク」という人物が出てくる。

偽協同組合(лжеартель)というのは、協同組合のふりをして裏で個人商売をして儲けていた人たちのことで、当時の(ソビエト)社会には多く存在したらしい。

そういう怪しげな組織の長に「ポードリンニク」という名前が付けられているのだが、ポードリンニクとはロシア語で「オリジナル/本物」を意味する。

要するに、ニセの商売をしている男に「マコト」とか「タダシ」みたいな名前がついているのだった。

このことに気づかない間は、ずっと「ポードリンニク」と訳して安心していられた。

しかし、あるとき「ウソの組織のマコト氏」という含意があることを知ってしまった。知ってしまった以上、「ポードリンニク」ではそれが通じないぞ、通じなくていいのか…という葛藤が始まる。

例えば、「ホンモノフ」とかどうだろうか、などと考える。ダサすぎる。「ポードリンニク」という音の感じからもあまりに遠い。「〜ニク」と語呂を合わせることすらできていない。

シャリコフ→コロフのような、自然で絶妙な訳が思いつけばいいけれど、「ホンモノフ」みたいに、いかにもとってつけた名前で作品世界の雰囲気をぶち壊すくらいなら、「ポードリンニク」のままでいったほうがいいんじゃないか。そう思う。

イタリア語訳をみつける


そんなとき、作品のイタリア語訳をみつけた。ネット上にあったそれは、学位論文として当該作品をイタリア語訳し、翻訳方針を解題として付している。

そこで「ポードリンニク」は「オーセンティック」と訳してあった。

…良いやん。良いやん!(興奮のあまり2回言う)

「ポードリンニク」と同じ「ク」で終わることで、元の名前の雰囲気を残しつつ、「本物」という意味を「オーセンティック」という語でずばり伝えてもいる。

日本でも「オーセンティックバー」だとか「オーセンティックなスタイル」など、多少は流通している言葉であるし、偽協同組合の議長「オーセンティック」で、通じる人には通じるのではないか。

こうして、何日も悩んでいた「ポードリンニク」訳は、イタリア語訳に助けられ、「オーセンティック」にすることで解決しそうだ。

めでたし、めでたし、であればいいのだけれど、葛藤はまだ終わらない。
このような名付けをされている人物はポードリンニク=オーセンティック氏だけではなく、あと何人もいるのであった… 大変やっかいな作品に手をつけてしまった。

例その3:ふたたび『犬の心臓』


ちなみに、「シャリク/シャリコフ」→「コロ/コロフ」という神業的翻訳をしている増本/ヴァレリー訳『犬の心臓』でも、他の登場人物の名前は、たとえ含意があっても基本的に音訳する形をとっている。

例えば、犬のシャリク/コロに人間の脳を移植するという、神をも恐れぬ所業をする医者には、まさに神に関する宗教的な名前がついている(プレオブラジェンスキー=「主の変容」の意)が、彼の名はそのままプレオブラジェンスキーと音訳されている。おそらく、「主の変容」という日本ではあまり馴染みのない概念を言葉にのせ、なおかつ自然な人名をつくるのが非常に難しいからではないかと思う。

どこまで(誰まで/どの名前まで)作者の意図を反映した訳をするのかは、翻訳者の判断に委ねられている、ということだろうか。

しかし、いいんですかね、アマチュア翻訳がそんな判断をしちゃって…

と思わないでもないが、やってみることにする。

今回、私はある程度のルールにのっとって、人名の訳し分けをしようと思う。

  • 名前に含意があり、その含意がわかると、より作品が楽しめるもの→含意のわかる訳名をひねりだす(イタリア語訳を参考にしつつ)

    • どう頑張ってもひねり出せないか、訳がお粗末で作品を汚しそうな場合は音訳とする。

  • 名前に含意があるが、わからなくても作品理解に影響がない/含意を訳出するとかえって悪目立ちするもの→そのまま音訳する

  • 含意のない名前→そのまま音訳する

このルールは、作中にでてくる架空の地理名称にも適用しようかと思っている。

ただ、たいして長い作品でもないのに、人名が35、地理名称が30近くも出てくるため、訳名の検討に難渋している。

早く訳を決めて、印刷デザインに入りたい。来月には印刷見本を注文したいと思っているのだけど、できるだろうか… 不安でいっぱいだ。

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