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【文フリ出品までの記録5】アマチュア翻訳の葛藤

私は、「じぶんが愛する作家を後世に残したい」という素朴かつ大それた思いを抱き、彼らの作品を翻訳して文フリに出そうとしている。

しかし私はプロの翻訳家ではないし、その言語に精通する見込みもない(永遠の学習途上にある)。なので、気を抜くと「なぜお前が翻訳するのか」「お前が翻訳していいのか」という問いが頭の中をぐるぐるし始める。

そんなとき、私が心の支えにしている諸先輩方の言葉があるので、今回の記事ではそれを紹介したい。


翻訳は芸事のようなもの


まずは、翻訳出版と翻訳研究の両面で活躍されている大久保ゆうさんの言葉から。

個人的には、翻訳は割と芸事に近いっていう実感があって──楽器でもそうですけど──とりあえず見よう見まねで弾き始めて、うまくなってくると楽しくなってくるじゃないですか。そういう感じでだんだんと原書がわかってくると、どんどんどんどん、もうすごい勢いで楽しくなっていく。

荒木優太編著『在野研究ビギナーズ』(2019年、明石書店)所収
「インタビュー3 ゼロから始める翻訳術 大久保ゆうに聞く」250ページ

実際、この言葉に押されて、4年ほど前、いち学習者の私は見よう見まねで翻訳を始めたのだった。私にとって原点のような言葉だ。

で、そうやって始めてみると、翻訳したものをどうするか、自分ひとりの引き出しにそっとしまっておくのか、公にするのか、という問いが新たに生まれる。そうした葛藤に対しても、大久保ゆうさんの言葉が、次のように優しく背中を押してくれる。

下手でもやっぱり出したほうがいいんじゃないかな。それも芸事の延長線上で、みんな多少演奏が下手でも演奏会をやるし、ライブもやりますよね。そういうお披露目会を積み重ねていくのと、いわゆるインターネットのパブリックスペースで、翻訳を人様に見せたりとか、あるいは絵を描いて見せたりとか、小説を書いて発表したりとかと、そんなに大きく変わらないんじゃないかなって。
もちろん「ここ間違ってるよ」って言ってくださる方もいらっしゃいますし。それからあとで「あ、しまった間違った」って恥ずかしくなることもあるんですけど、それはまあまあ芸事には付き物ですよね。

同上、251〜252ページ

何事も飛躍するには発表の場が欠かせない。仕事だってそうだもの。
芸事である翻訳もそうなのだ。

精読としての翻訳


大久保ゆうさんの言葉で心はほぐれる。

ただ、その後すらすら翻訳がはかどるかというと、当然ながらそんなことはなく、平凡な人間にとって、翻訳なんて簡単にできるものではない。

一歩進むごとに壁にあたる。

どれだけ調べてもよくわからない、わかってもうまく日本語にできない、なんてことはざらで、気がつくと数行の文章に数時間かかっていることもある。

そんなとき、ふと我に返り、「こんなことをして何の意味があるんだろう。待ってくれている読者がいるわけでもなく、ひとりよがりでやっていることに、こんなに時間をかけて、私は時間の無駄づかいをしているだけでは…」なんて思う。

そんなときには、ナボコフの翻訳と研究で知られる若島正先生の言葉を読む。(私は若島先生主宰のほんわか塾生でもあるので先生とお呼びします)

ある作品を理解するためにいちばんいい方法は、得心がいくまでそれを翻訳してみることだ、と教えてくれたのは、文学部で学んだときのわたしの恩師である。恩師は、ある思い定めた作家の作品を一つ一つ翻訳することに生涯を捧げたと言ってもおかしくはない人で、わたしもいつのまにか恩師に感化されたらしい。実際、『ロリータ』を翻訳していたときは、それまで何も気にせずに通り過ぎていた箇所が次々と気になり、なるほどとわかったところもいくつかあって、それが嬉しくて仕方がなかった。

若島正「ナボコフとの出会い」、『Apied』15号、2009年5月(太字強調筆者)

結局のところ、人が本を読むその意義というものは、あくまでもその人にしか存在しないとわたしは思っている。その人にとってある本がかぎりなく豊かなものを与えたとすれば、それがたとえ他人の目から見ればどれほどつまらないことであろうが、それだけで充分な意味があるはずだ。わかるということの意義も同じである。わからなかったことが、わかるようになる。そこでわかった事実が、たとえ他人にはさほどの価値を持たなくとも、それを自力でわかったというプロセスそのものに価値がある

同上(太字強調筆者)

翻訳とは精読であり、味読のプロセスである。
自分で読んでわかっていくことに意味があるのだから、どれだけ時間がかかってもよいのだ。

ふだんはどうしても、自分がやっていることの意味について考えこんでしまうことが多いので、ときどきこの言葉を読み返して、心の燃料にしている。

作家の存在を知らせる


それでもまだ「自分が翻訳していいのか」悩むときもある。
そういうときは、ど直球な、次のメッセージを思い出すようにしている。

権利の切れたものを、どんどんどんどん、翻訳者はそれぞれ電子書籍とか、ネットで発表していけばいいんじゃないのかな、と思ってますね。
〔著作権が切れるのは〕死後70年なんで、死後70年経過した作品は、例えば、そういう志ある人は、「この作家好きだから」って、そんな形で、ネットとか、電子書籍で、そういう形でどんどん発表していけば、全体の底も上がるんじゃないかなって気がします。

第九回日本翻訳大賞中間報告会&翻訳トーク(2023年4月9日Youtube上で開催、〔〕内は筆者)

これは作家で翻訳家の西崎憲さんが言われた言葉で、ここで「翻訳者」とか「志ある人」と呼ばれているのは、名の売れたプロの翻訳家だけではなく、無名の人たち・アマチュアの人たちも含まれていると思われる。

さらに詳しく、次のようにも説明されている。

権利の切れた作家は膨大にいるし、で、その人しか訳さない作家っているんですよね。〔中略〕例えばいまKindleで翻訳出してる人は結構います。〔中略〕ただやっぱり無名で、ただ出すだけだと、それこそ具体的に金額をあげると、もう数千円くらいの見入りしかないんですよね、おそらくね。ただ、その数千円の見入りは確かに少ないんだけれど、他で読めないものを出したっていうのは、やっぱり大きいんですよね。っていうのは、ひとつ出さないと、ないことになってしまうんで。その作家がいないことになってしまうんで。ひとつ出したら〔その作家が〕いるんですよね。だから作家がいるってことを知らせるだけでも〔中略〕出す価値があって、〔中略〕翻訳は、実際やってればうまくなりますからね。そしたらもう、全体の日本の翻訳のレベルも、上がっていくんじゃないかなと思いますよね。

同上、〔〕内および太字強調筆者

他に誰もいないなら、あなたがやりなさい。やっていれば、いずれうまくなるから。そうやって、その作家がいることを知らせなさい。

アマチュア翻訳者をふるいたたせてくれる、愛ある応援メッセージだと、私は思っている。


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