私は、「じぶんが愛する作家を後世に残したい」という素朴かつ大それた思いを抱き、彼らの作品を翻訳して文フリに出そうとしている。
しかし私はプロの翻訳家ではないし、その言語に精通する見込みもない(永遠の学習途上にある)。なので、気を抜くと「なぜお前が翻訳するのか」「お前が翻訳していいのか」という問いが頭の中をぐるぐるし始める。
そんなとき、私が心の支えにしている諸先輩方の言葉があるので、今回の記事ではそれを紹介したい。
翻訳は芸事のようなもの
まずは、翻訳出版と翻訳研究の両面で活躍されている大久保ゆうさんの言葉から。
実際、この言葉に押されて、4年ほど前、いち学習者の私は見よう見まねで翻訳を始めたのだった。私にとって原点のような言葉だ。
で、そうやって始めてみると、翻訳したものをどうするか、自分ひとりの引き出しにそっとしまっておくのか、公にするのか、という問いが新たに生まれる。そうした葛藤に対しても、大久保ゆうさんの言葉が、次のように優しく背中を押してくれる。
何事も飛躍するには発表の場が欠かせない。仕事だってそうだもの。
芸事である翻訳もそうなのだ。
精読としての翻訳
大久保ゆうさんの言葉で心はほぐれる。
ただ、その後すらすら翻訳がはかどるかというと、当然ながらそんなことはなく、平凡な人間にとって、翻訳なんて簡単にできるものではない。
一歩進むごとに壁にあたる。
どれだけ調べてもよくわからない、わかってもうまく日本語にできない、なんてことはざらで、気がつくと数行の文章に数時間かかっていることもある。
そんなとき、ふと我に返り、「こんなことをして何の意味があるんだろう。待ってくれている読者がいるわけでもなく、ひとりよがりでやっていることに、こんなに時間をかけて、私は時間の無駄づかいをしているだけでは…」なんて思う。
そんなときには、ナボコフの翻訳と研究で知られる若島正先生の言葉を読む。(私は若島先生主宰のほんわか塾生でもあるので先生とお呼びします)
翻訳とは精読であり、味読のプロセスである。
自分で読んでわかっていくことに意味があるのだから、どれだけ時間がかかってもよいのだ。
ふだんはどうしても、自分がやっていることの意味について考えこんでしまうことが多いので、ときどきこの言葉を読み返して、心の燃料にしている。
作家の存在を知らせる
それでもまだ「自分が翻訳していいのか」悩むときもある。
そういうときは、ど直球な、次のメッセージを思い出すようにしている。
これは作家で翻訳家の西崎憲さんが言われた言葉で、ここで「翻訳者」とか「志ある人」と呼ばれているのは、名の売れたプロの翻訳家だけではなく、無名の人たち・アマチュアの人たちも含まれていると思われる。
さらに詳しく、次のようにも説明されている。
他に誰もいないなら、あなたがやりなさい。やっていれば、いずれうまくなるから。そうやって、その作家がいることを知らせなさい。
アマチュア翻訳者をふるいたたせてくれる、愛ある応援メッセージだと、私は思っている。