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《世界史》帝国の黄昏と皇后エリザベート

こんにちは。
Ayaです。
今日はフランツ・ヨーゼフ1世皇后エリザベートとその時代についてまとめます。

青年皇帝フランツ・ヨーゼフ1世とシシィの出会い

フランツ2世の崩御後、フェルディナンド1世が帝位に着きましたが、彼は病弱で、引き続きメッテルニッヒが政務を行なっていました。1848年の革命でメッテルニッヒが逃亡すると、フェルディナンド1世も退位させられてしまいます。順当に行けば、その弟のカール大公が即位するはずでしたが、思いもよらない敵が現れます。
なんとカール大公の妻ゾフィーが夫は帝位に不適格で、息子のフランツ・ヨーゼフ1世を即位させようというのです。革命を落ち着かせるには若い皇帝を立てるしかないというものでしたが、狙いは見事にあたります。若干19歳の新皇帝は人々に歓迎されました。若い皇帝は母や廷臣たちの意見をよく聞き、統治を盤石なものにしていきます。

フランツ・ヨーゼフ1世の母 ゾフィー大公妃
その政治的な才覚から『オーストリア唯一の男』と畏怖された。

息子を帝位につけたゾフィーは次の手を打ちます。息子にふさわしい結婚相手を見つけるのです。最初はプロイセン王女を狙いましたが断られたので、格下ではありますが、自分の妹の娘へレーネに白羽の矢を立てます。23歳の青年皇帝の誕生日の祝いの席にへレーネを招待しました。
しかし、青年皇帝が心惹かれたのはへレーネに付き添ってきた妹エリザベート(愛称シシィ)でした。自分と同じ従順な生活のへレーネより、自由奔放なエリザベートに恋をした青年皇帝は、母の反対を押し切り、エリザベートと結婚します。
ゾフィーはよく若くて美しい嫁に嫉妬したと描かれますが、実際は違います。エリザベートは王族としては破天荒だった父親のもとで、自由を謳歌して成長してきたので、ウィーン宮廷は堅苦しく、すぐ悲鳴をあげました。ゾフィーとしては自身も苦労してウィーン宮廷に適応してきたので、いつまでも適応しようとしないエリザベートは心配の種だったのでしょう。夫のフランツ・ヨーゼフ1世もただ妻を愛するだけで、若い妻を守ろうとしませんでした。最初の子どもを亡くしてしまったために、子どもたちの養育権もゾフィーに渡ります。宮廷に居場所を失ったエリザベートは海外を転々として過ごします。
そしてもう一つ執念を燃やしたのが、美の維持でした。子どもたちを出産後も驚異的なプロポーション(身長172cm体重46kgウエスト50cm)を維持し続けました。そのための運動や食事管理を欠かさず、気を失って倒れるほどの脅迫観念となって彼女を支配します。

エリザベート
美しい髪に執着した彼女は『私はこの髪の奴隷なの』と公言していた。

マクシミリアンの処刑(1868)

子どもたちの養育権を失ったエリザベートですが、転機が訪れます。
ゾフィーには、フランツ・ヨーゼフ1世以外にも3人の息子たちがいました。なかでもすぐ下の弟マクシミリアンを溺愛して育てました。兄フランツ・ヨーゼフ1世とも親しかったマクシミリアンですが、成長するにつれ、対立するようになります。マクシミリアンはベルギー王女シャルロッテと結婚しますが、シャルロッテは実家の劣る兄嫁エリザベートを軽蔑していました。また彼女は権勢欲の強い女性でしたので、夫の野心を煽ります。危険視したオーストリア政府は彼の軍籍を解き、30代の若さで引退に追い込みます。しばらく無為の生活を送りますが、ある人物から声をかけられます。
その人物とはフランスのナポレオン3世でした。ナポレオン3世は植民地メキシコを抑え込むため、傀儡とする人物を探していたのです。さすがにマクシミリアンも躊躇しますが、シャルロッテは乗る気になり、彼女の説得もあってメキシコに渡ることを決めます。母ゾフィーは猛反対しましたが、もうメキシコで帝位につくことを思い浮かべているマクシミリアンには無駄でした。兄フランツ・ヨーゼフ1世から突きつけられた帝位継承権放棄の書類にサインして、マクシミリアン夫妻はメキシコに渡ります。しかし、現実は甘くありません。ヨーロッパからの独立を果たそうとする国民からの支持は得られず、孤立します。シャルロッテはヨーロッパに戻り、必死に援助を頼み込みますが、途中で発狂してしまいます。
オーストリアに戻ることよりも部下とともに生きることを選択したマクシミリアンは1867年処刑されます。
シャルロッテは最期までこの事実を認めませんでした。いつか自分を夫が迎えに来ると信じて、30年以上幽閉されることとなるのです。

マネ『マクシミリアンの処刑』
マネの死後、バラバラに解体されたが、モネの尽力で復元された。マクシミリアンにはメキシコ帽を被らせ円光に見立てる一方で、右端の処刑部隊の隊長をナポレオン3世そっくりに描くことで彼の罪を告発している。
ヴィンターハルター『マクシミリアンの妻シャルロッテ』
30年以上狂気のなかを生きた。寝る時はマックスという人形を片時も離さなかったという。

マクシミリアンの死にヨーロッパ諸国は衝撃を受けました。マクシミリアンを送り出したナポレオン3世夫妻も弔問に訪れました。当時ナポレオン3世の妻ユージュニーも美女として有名でしたので、2人の美女をみようと見物人でごった返しました。どちらも甲乙つけ難い美貌でしたが、ユージュニーは最新モードのドレスをきていたので、保守的なオーストリアではエリザベートに軍配があがったようでした。
対立していたとはいえ、実弟を亡くしたフランツ・ヨーゼフ1世はショックを受けました。彼より深い悲しみにおちいったのは母ゾフィーでした。ゾフィーは嘆きのために病に臥し、5年後亡くなりました。姑から子育ての実権を取り戻したエリザベートは息子ルドルフの家庭教師を自由主義者にすげ替えます。これは息子ルドルフの思想に影響を与えることとなります。

奇妙な三角関係

姑から子育ての実権を取り戻したエリザベートですが、その生活は変わりませんでした。すでに各地を放浪するクセはついてしまっており、ウィーンの宮廷に戻ることは少なかったようです。そんな彼女をフランツ・ヨーゼフ1世は許し続けていたわけです。
そんなあるとき、芝居嫌いな夫が女優目当てに劇場を何度も訪れたという話を耳にします。エリザベートは早速女優を探し当てます。その女優はカタリーナ・シュラットという女性で、エリザベートはひと目見た彼女を気に入り、夫に紹介します。つまり、妻公認の恋人をもたせたのです。エリザベートは旅先でもカタリーナを気をかけ、2人がケンカすると仲立ちまでします。娘のマリー・ヴァレリーは理解不能な関係とつづっていますが、留守にすることの多いエリザベートにとっては自分の代わりに夫を慰めてくれるうえ、慎ましい性格のカテリーナはなくてはならない存在だったことでしょう。この夫と恋人の関係はエリザベートの死後も続くこととなります。

フランツ・ヨーゼフ1世の恋人カタリーナ・シュラット
旅で留守のエリザベートにフランツ・ヨーゼフは彼女との関係を事細かに綴っている。エリザベートは内心彼女の肉付きの良い体つきを皮肉っていたという。
フランツ・ヨーゼフ1世の三女マリー・ヴァレリー
夫妻の子どもで唯一手元で養育したため、エリザベート溺愛の娘だった。オーストリア革命では真っ先に帝国の財産を放棄している。

うたかたの恋 ルドルフの怪死

夫の世話はその恋人に任せて、自分の人生を謳歌するエリザベート。
一方で息子ルドルフは悩んでいました。母の教育方針によって自由主義者の教授陣に養育されましたが、保守主義者の父フランツ・ヨーゼフ1世と対立してしまうのです。
家庭生活もうまくいっていませんでした。ベルギー王女のステファニーと結婚し娘をもうけましたが、ルドルフは愛人をたくさん抱えていました。父との対立に悩まされたのか、愛人を心中に誘いますが、拒否されてしまいます。その上警察に通報されたので、彼を見張る人員も増やされてしまいました。
そんなときに出会ったのが、男爵令嬢のマリー・フォン・ヴェッラでした。16歳の彼女とは真剣に交際していたのか、妻との離婚をローマ法皇に直訴しました。しかし、その返書が間違って父フランツ・ヨーゼフ1世に届いてしまい、激怒させます。彼女と手を取り合って、マイヤーリンクへ駆け落ちし、2人は謎の死をとげます。
最初は病死とされましたが、やがて心中と報道されます。しかし、自由主義者の彼は父のような保守主義者には嫌われていましたし、自由主義者内の対立に巻き込まれた可能性もあります。一人息子を亡くしたフランツ・ヨーゼフ夫妻は嘆き悲しみました。

皇太子 ルドルフ
のちにカール1世の妻によりフランツ・ヨーゼフ1世がルドルフ怪死の真相究明を命じたが実行できなかったと告白されている。真相は謎。

放浪の末に

自身が自由な生活を謳歌していたために息子の悩みを聞けなかったエリザベートですが、さらに不幸がおとづれます。それは美貌の衰えでした。その維持に並々ならぬ執念を燃やしてきた彼女ですが、時の流れには勝てませんでした。一般人ですら自らの老いに向き合うことは苦しいですが、美貌を称賛されてきた彼女にとって地獄です。時代というものは残酷なもので、カメラでスナップ写真をとることができ、元祖パパラッチのような者たちも出現していました。咄嗟に顔を隠している写真が残されています。

咄嗟に扇子で顔を隠すエリザベート
美貌が衰え始めてから扇子や日傘を手放せなくなった。

そんなこともあり、旅から旅の生活を加速させるエリザベート。最期の旅先はスイスでした。1898年無政府主義者によって刺殺されたのです。享年60歳。この犯人は元々別の要人を狙っていましたが失敗し、警備の甘いエリザベートを刺殺したのです。結婚もですが、彼女はいつも自分以外のものを引き寄せてしまう人生でした。
長年別居生活を送っていたフランツ・ヨーゼフ1世も悲嘆に暮れました。

不死鳥 フランツ・ヨーゼフ1世

妻の死を恋人に慰めてもらったフランツ・ヨーゼフ1世ですが、さらなる不幸が襲います。
ルドルフの没後、後継者に指名していたフランツ・フェルディナンド皇太子がサラエボで暗殺されたのです。この暗殺はドイツとイギリスの対立をさらに煽り、第一次世界大戦に突入します。クリスマスには終わると言われていた戦争はなかなか終わりませんでした。
第一次世界大戦中の1916年、フランツ・ヨーゼフ1世は崩御します。享年86歳。
フランツ・ヨーゼフの死後は大甥にあたるカール1世が即位しました。しかし、様々な民族の住まう帝国を維持することは困難でした。第一次世界大戦後のオーストリア革命で国を追われてしまいます。ハンガリー国王に復帰しようと活動しますが敗れ、家族ともども流刑となり、流刑先で崩御しました。彼の妻子は許されましたが、600年続いたハプスブルグ帝国は滅亡しました。
近代化してきた当時のオーストリアにとって、絶対君主制に固執したフランツ・ヨーゼフ1世は暗愚な部類に入るでしょう。しかし、その60年以上に及ぶ長い治世は第二次世界大戦後評価され、不死鳥と讃えられることとなります。現在フランツ・ヨーゼフ1世とその妻エリザベートはウィーンになくてはならない存在です。

カール1世の結婚式に参列するフランツ・ヨーゼフ1世(左端)
フランツ・フェルナンドの貴賤婚には猛反対したフランツ・ヨーゼフだが、カール1世の妻は傍流とはいえブルボン家出身のため結婚を喜んだ。
フランツ・ヨーゼフ1世
オーストリア最後の皇帝と呼ばれる

帝国の黄昏、エリザベートをまとめ終わりました。美貌の妻に隠されてしまいがちな夫フランツ・ヨーゼフについても記してみました。
エリザベートのように特権階級でありながら自由を求めた人間はごくわずかでした。一方フランツ・ヨーゼフ1世は自らを縛り付けてしまいました。そんな彼だからこそ自由を愛する妻を求めたのでしょう。

明日からは新しいシリーズを開始する予定です。

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