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《世界史》アレクサンドル2世とアレクサンドル3世皇后マリヤ・フョードロヴナ

こんにちは。
Ayaです。
今日は解放皇帝アレクサンドル2世についてからまとめます。

アレクサンドル2世(1818〜1881)

アレクサンドル2世は1818年ニコライ1世の息子として生まれます。父の崩御後即位しますが、莫大な賠償金や近代化の遅れなど問題が山積していました。
近代化において工業生産が必要不可欠でした。しかし、当時ロシアではほとんどが農奴として生活していたため、工業生産に人手がまわりませんでした。そこで、アレクサンドル2世は農奴解放にうってでます。しかし、その内容は大貴族たちにおもねったもので、農奴たちの実情は汲んでいませんでした。そのため、命を狙われ続けます。中でも有名だったのはカラコーゾフ事件です。カラコーゾフという青年がアレクサンドル2世の暗殺を企て、失敗に終わりました。この事件はドストエフスキーにインスパイアを与え、『カラマーゾフの兄弟』の執筆動機になったと言われています。
結局1881年アレクサンドル2世は暗殺の手に落ちます。享年62歳。

アレクサンドル2世

後妻エカチェリーナ・ミハイロヴナ・ドルゴルーコヴァ《通称カーチャ》

ヴィンターハルターの項でも述べましたが、アレクサンドル2世は大恋愛の末ヘッセン大公女マリヤを皇后に迎えます。しかし、その愛情は続かず、数多くの愛人を作りました。
《美術史》ヴィンターハルターと女性たち|Aya|note
その愛人たちのなかでも、特にエカチェリーナ・ドルゴルーコヴァ(通称カーチャ)のことは溺愛していました。カーチャは没落貴族の出身で、寄宿学校の学費すらアレクサンドル2世に払ってもらっていました。20歳以上年齢が離れていたので、カーチャは最初男女の関係を断っていました。しかし、長男の病死と自身への暗殺未遂に消沈するアレクサンドル2世の姿を見て、愛人関係を結びます。すでに正妻マリアは結核に罹患しており、夫婦関係を結べなかったのです。
彼女はその後アレクサンドル2世の子どもを4人出産します。最初はアレクサンドル2世が与えた邸宅に住んでいましたが、アレクサンドル2世がカーチャ母子が暗殺の標的となることを恐れ、冬宮に移します。さすがに批判を浴びましたが、アレクサンドル2世は無視しました。カーチャの前では10代の青年のように振る舞い、カーチャも彼を愛称サーシャで呼ぶなど宮廷人からは白い目で見られていました。1880年冬宮の付近で爆発が起こると、すでに意識が朦朧としていた皇后マリアを放ってカーチャのもとに駆けつけました。この時マリアの兄も同席していたので、当然ながら激怒しました。
同年皇后マリアの死から1ヶ月後、カーチャと正式に再婚します。貴族たちや民衆からも認められていない貴賤婚でした。さすがに子どもたちには皇位継承権は認められず、カーチャの爵位を継承させることとなります。
やっとアレクサンドル2世の妻を手に入れたカーチャでしたが、その一年後アレクサンドル2世は暗殺されます。アレクサンドル2世の家族は彼女らの存在を苦々しく思っていたので、すぐ国外退去処分となります。
次々代のニコライ2世には寛容に扱われ、カーチャの息子はロシアで住むのを許されます。カーチャは結婚式の際の娘の父親がわりをニコライ2世に頼みますが、さすがに断られました。1922年カーチャはフランスで亡くなりました。享年74歳。


アレクサンドル2世と後妻カーチャ、その子どもたち


アレクサンドル2世が暗殺され、その息子アレクサンドル3世が即位します。その傍らには美貌の妻マリヤ・フョードロヴナがいました。後半は彼女の前半生について取り上げます。

アレクサンドル3世皇后マリア・フョードロヴナ(1847〜1928)

マリヤ・フョードロヴナは1847年デンマークに生まれました。もともとの名前はマリー・ダウマーといい、ミニーの愛称で呼ばれていました。彼女が生まれた頃の両親はデンマーク王の親戚に過ぎず、国から借りた邸宅で細々と生活していました。マリヤは姉アレクサンドラと相部屋で仲良く育ちます。
このまま平凡に生きるはずだったマリヤ姉妹ですが、父がクリスチャン9世として即位すると一変します。彼女たちは一国の王女となり、その美貌が注目されます。その美貌は当時第一の美女だったエリザベートに並び称されるほどでした。

マリヤと姉妹たち
父クリスチャン7世は娘たちが各国に嫁いだので、『ヨーロッパの義父』と言われた。

先に姉アレクサンドラがヴィクトリア女王の息子エドワード(後のエドワード7世)のもとに嫁ぎます。
マリヤにはアレクサンドル2世の皇太子ニコライとの婚約が整います。すでに2人は面会して、仲良くなっていました。しかし、不幸にもニコライは亡くなってしまいます。嘆き悲しんだマリヤでしたが、アレクサンドル2世から手紙が届きます。次男アレクサンドルと結婚してくれないかというものでした。
兄ニコライのようにアレクサンドルもマリヤと面会しました。兄ニコライは長身の線の細い青年でしたが、アレクサンドルは質実剛健のタイプでした。不安に思いながら、マリヤは改宗して改名の上嫁ぎました。
それは杞憂に終わり、アレクサンドルとマリヤは仲睦まじく三男三女をもうけました。
1883年、夫のアレクサンドル3世が即位します。戴冠式の直前にテロ計画が明らかになったため、新皇帝夫婦はガッチナ宮殿に移ります。
マリヤは美貌と社交性に恵まれたため、宮廷の花となります。アレクサンドル3世弟ウラジミールの妻マリヤ・パヴロウナとは人気を争っていました。マリヤは彼女を『ウラジミール皇帝のお妃様』と皮肉っていました。

アレクサンドル3世皇后 マリヤ・フョードロヴナ


ウラジミール大公妃 マリヤ・パヴロウナ
マリヤ・フョードロヴナと社交界の花を争っていた。

お互いに嫁いでからも姉アレクサンドラとは家族ぐるみの付き合いをしていました。故郷デンマークやパリで休暇を楽しみました。この付き合いは2人の息子同士(ニコライ2世とジョージ5世)まで引き継がれることとなります。
一方で、夫アレクサンドル3世は父帝時代からのテロ行為に悩まされていました。1888年には家族で事故にあい、崩れてくる瓦礫を支えて家族を守っています。この怪我から体調を崩し、1894年には崩御してしまいます。
享年49歳。最愛の夫を失ったマリヤでしたが、気がかりなことがありました。
アレクサンドル3世の後を継いだのは、息子ニコライ2世でした。息子ニコライ2世はヘッセン大公女アレックスとの結婚を望んでいました。ヘッセン大公女アレックスは美貌が有名でしたが、ヴィクトリア女王の孫であり、血友病の保因者の可能性がありました。このことからマリヤは結婚を反対しましたが(危惧は的中します)、息子に押し切られてしまいます。この結婚がニコライ2世の運命を変えることとなります。

アレクサンドル2世とアレクサンドル3世の皇后マリヤ・フョードロヴナについてまとめました。
アレクサンドル2世は解放皇帝と呼ばれましたが、非業の死を迎えます。息子のアレクサンドル3世は父の死への恐怖でガッチナ宮殿に引きこもり、最期はアルコール中毒が原因で亡くなってしまいました。
一方で、女性関係では真逆の親子でした。反対を押し切って結婚・こどもをたくさんもうけても正妻マリヤには冷たくあたったアレクサンドル2世。娘のような年齢のカーチャにデレデレだった父の姿は、アレクサンドル3世も見たくなかったでしょう。アレクサンドル3世は美貌の妻マリヤ・フョードロヴナを持って、全く浮気せず、幸せな家庭を築きました。
マリヤ・フョードロヴナ、姉アレクサンドラといい、美人ですね。当時からエリザベートの次世代の美女とされていたようです。最愛の夫は亡くなってしまいましたが、息子ニコライ2世の結婚によってさらに過酷な運命が動き出します。

次はいよいよニコライ2世です!彼の家族やラス・プーチン、アナスタシアやアンダーソン夫人などについてまとめたいとおもいます。


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