《世界史》ガイウス・ユリウス・カエサル
こんにちは。
Ayaです。
B.C146年に強敵カルタゴを滅ぼした共和政ローマは、広大な属州(植民地)を持つようになります。属州から送られてくる穀物で豊かになった一方、軍の中核を担っていた農民たちの地位は没落していきます。この状況を憂慮したグラッスス兄弟は改革を行おうとしますが、二人とも暗殺されてしまいます。
こうした混乱のなか登場したのが、ガイウス・ユリウス・カエサルでした。すでにクレオパトラの愛人として取り上げていますが、今回は彼についてまとめます。
ガイウス・ユリウス・カエサル(B.C.100?〜B,C.40)
ガイウス・ユリウス・カエサルはB.C.100年法務官(執政官につぐ地位。司法を担当する)の息子として生まれました。母も何人も執政官を輩出している名門の出身でした。
彼がローマ政界に進出したころ、スッラとマリウスの対立が鮮明化していました。彼はマリウス派に属していたため、マリウスを追放したスッラは彼を処刑しようとしましたが、有力な人々の嘆願により回避されました。
スッラの死後、徐々に力をつけていき、B.C.61年三頭政治を開始します。武名をはせていたポンペイウス、スッラの後継者クラッススと結託し、元老院の力を抑制するのが目的でした。人気はあったものの、ポンペイウスと同程度の功績が欲しかったカエサルはガリアへ遠征します。見事ガリア全域をローマの属州とします。この功績はポンペイウスだけでなく、元老院の面々にも警戒されるようになります。
B.C.53年クラッススが戦死したことで、三頭政治は崩壊します。カエサルの妻だった娘も前年に亡くなっており、ポンペイウスはカエサルを見限り、二人の対立は顕在化します。
4年後、元老院はカエサルの属州総督解任とカイサル派の護民官を追放します。勿論、ポンペイウスの差し金です。カエサルはイタリア本土との境になっているルビコン河までたどり着きます。
いわゆる『賽は投げられた』の名言はこのときに発せられたものです。すでにカエサルの軍の連帯は強まっており、あっという間にイタリア半島を制圧。元老院もポンペイウスを見限り、ポンペイウスはエジプトへ逃亡します。
ポンペイウスを追って、カエサルはエジプトへ向かいます。ポンペイウスはすでにプトレマイオス13世が暗殺していましたが、カエサルは運命的な出会いを果たします。彼女こそ、クレオパトラ7世です。
彼女についてはすでに記事にしていますので割愛させていただきますが、当時実弟プトレマイオス13世と彼女は対立していました。カエサルの後ろ盾が欲しくて、接触してきたのです。彼女と男女関係を結んだカエサルは、彼女を支援し、プトレマイオス13世は敗死します。そのついでにポンペイウスの勢力下だった北アフリカやヒスパニアを制圧します。
こうして政敵の粛清と軍功をつかんだカエサルは人々の熱狂的な歓声に迎えられ、終身独裁官に就任します。
しかし、このころから愛人クレオパトラと庶子カエサリオンに豪邸を与えるなど傲慢な態度が目に付くようになります。この状況に危機感を覚えたのが、ブルトゥスら共和主義者です。
そして、運命のB.C44年3月15日を向かえます。元老院の議場ポンペイウス劇場への廊下で、カエサルは暗殺されたのです。享年60歳。
勿論クレオパトラはカエサリオンを後継者としてほしかったでしょうが、カエサルが後継者に指名したのは妹の孫オクタヴィアヌスでした。彼がカエサルの功績を継承しローマ皇帝となるのですが、それはつぎでまとめます。
カエサルというひとは、絶大なカリスマ性を持ったひとだったと思います。名前がのちの”皇帝”を意味するドイツ語の『カイザー』やロシア語の『ツァーリ』になったわけですから。しかし、同じようなカリスマ性をもっていた織田信長の天下が続かなかったように、カエサルも暗殺されてしまいました。
このふたりのあと君臨するのが、柔軟性という共通点をもったオクタヴィアヌスと徳川家康なのも興味深いですね。
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