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《世界史》イタリア統一

こんにちは。
Ayaです。
今日はイタリア統一についてです。
ルネサンス美術の稿でも述べましたが、イタリアは中世以降都市国家が形成されていました。都市国家の力が弱まってくると、オーストリアやフランスなど他国の支配下に入ります。
北はオーストリアやフランス、ローマ周辺は教皇領、南は両シチリア王国(スペイン王家の支流)とバラバラの状況でした。

ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世(1820〜1878)

このバラバラの国々のひとつにサルデーニャ王国がありました。この王国はルネサンス時代からの名門貴族サヴォイア家が支配しており、その分家に1820年ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世が生まれます。本家に男子がいなかったため、父が即位し、彼も王位継承者となります。
1848年のフランス二月革命の余波で父が退位させられ、ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世が即位します。彼は『イタリア統一三英傑』とともに、イタリア統一を目指すこととなります。

ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世

『イタリア統一三英傑』とは、
・ジュゼッペ・マッツィーニ(1805〜1872)
・ジュゼッペ・ガリバルディ(1807〜1882)
・カッミロ・カヴール(1810〜1861)

の3名です。

ジュゼッペ・マッツィーニ(1805~1872)


ジュゼッペ・マッツィーニは1805年ジェノヴァに生まれます。ジェノヴァ大学を卒業後弁護士を開業しますが、秘密結社カルボナリに入党し官警に追われるようになります。カルボナリの組織に限界を感じた彼は、1831年青年イタリアを結成します。分裂していたイタリア半島を1つの共和国にまとめようとするものです。
1848年、ローマ共和国を成立させますが、ナポレオン3世の介入であえなく崩壊。マッツィーニは海外から各都市の独立闘争を指導しますが、あまりに理想主義的だったため求心力が衰え、ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世とカヴールへ支持があつまるようになります。

マッツィーニ

ジュゼッペ・ガリバルディ(1807〜1882)


ジュゼッペ・ガリバルディは1807年フランスのニースに生まれ、家業の海上船舶業に従事します。出向先で青年イタリア(マッツィーニの結成した政治結社)に接触し、マッツィーニに認められ、秘密結社カルボナリ(急進的な政治結社)に加入します。1848年ローマ共和国が成立すると、ナポレオン3世が鎮圧させるための軍を送ってきます。フランス軍に敗れた軍を『我々がどこに退こうとも、戦う限りローマは存続する』との名演説で鼓舞し、サヴォイワ家のピエモンテまで逃れます。サヴォイワ家からの支援を断られると、一旦アメリカに亡命しますが、1854年イタリアに帰国します。すでに名声は確立されていましたが、時を待つこととなります。

ガリバルディ
赤シャツ隊を率いて戦う。彼をまねてムッソリーニは黒シャツ隊を結成する。


カッミロ・カヴール(1810〜1861)

カッミロ・カヴールは1810年フランス領トリノで生まれました。10代は軍に仕官しますが、自由主義に共鳴したため居づらくなり除隊。除隊後は各国を巡って見聞を広げ、自由主義経済と議会主義を志します。
1848年選挙で当選し、内閣の大臣をつとめます。前任の首相がローマ教皇庁と対立し下野すると、カヴールが首相となります。ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世は宗教的には保守的な人間でしたが、カヴールの手腕に頼らざるを得ませんでした。
サルデーニャ王国の近代化に取り組み、各国との通商条約や交通網の構築を開始します。修道院を廃止し国有財産化する法律を施行しますが、ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世に妨害されました。激怒したカヴールは首相を辞任しますが、代わりの者がおらず、結局再任されます。これでヴィットーリオ・エマヌエーレ2世も妨害できなくなり、カヴールの政策はイタリア統一の基盤となります。

カヴール
敏腕の政治家で『神がイタリア統一のためにつかわした男』と言われている。

マッツィーニとガリバルディとも協力することとなりますが、カヴールは現実主義者で妥協も辞さないので、マッツィーニとはよく対立していました。カヴールはオーストリアの代わりにイタリアへの影響力拡大を狙っていたナポレオン3世とプロンピエールの密約を交わします。対オーストリア戦に協力する代わりに、フランス人人口の多いサヴォワとニースを割譲するという内容でした。ヴィクトーリオ・エマヌエーレ2世の賛同を得られませんでしたが、対オーストリア戦に踏み切ります。
フランスの参戦でオーストリアに優勢でことを進めますが、ナポレオン3世がオーストリアと和睦しようとしたため、プロンピエールの密約とおりサヴォアとニースの割譲を実行します。
ニース出身のガリバルディはこの密約に激怒し、義勇軍を率いて両シチリア王国に攻め込みます。平和裏の住民投票による併合を目指していたカヴールはガリバルディを説得、結局ガリバルディが折れ、ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世に両シチリア王国の領土を献上します。
1861年ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世はイタリア王として即位、カヴールは初代イタリア首相となります。イタリア王国の成立です。
しかし、いわゆる『未回収のイタリア』や第一次世界大戦後領土を得られなかった不満から、ファシスト党のムッソリーニの台頭を許してしまいます。

イタリア統一、今までで一番まとめづらかったです‥。いつも大体1日でまとめるんですが、今回は3日ぐらいかかりました。ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世、マッツィーニ、ガリバルディ、ガヴールと4人ともばらばらなんですよね。バラバラながらなんとかできたイタリア王国でしたが、ムッソリーニの台頭で第二次世界大戦に巻き込まれていきます。

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