《美術史》ゴッホとゴーギャン
こんにちは。
Ayaです。
今日は日本で人気画家の一人に数えられるゴッホと、その友人ゴーギャンについてまとめます。
ヴィンセント・ファン・ゴッホ(1853〜1890)
ヴィンセント・ファン・ゴッホは1853年オランダの牧師の家に生まれます。
親戚のコネで入社した画商で数年働きましたが、失恋と会社の方針に合わず、辞めてしまいます。父と同じ聖職者を目指しますが、挫折。弟テオの援助を受けて、画家を目指します。オランダでは未だ古い美術が好まれていたため、画商でパリ支店に勤めていた弟テオのもとにころがみこみます。弟テオや画材店のタンギー爺さんの仲介で、ロートレックやシニャックに出会い、刺激を受けます。印象派や新印象派(スーラやシニャック)を模倣するだけでなく、日本の浮世絵を取り入れるなど独自の画風を模索していきます。
しかし、未だに売れず、弟テオに生活費はかかりきりだったため、弟テオとの関係が悪化します。次第に芸術家だけのコミュニティーを作ることを夢みます。
その候補地として、日本に似ていたアルルを選びます。テオを通していろんな画家に声をかけますが、相手をしてくれたのはゴーギャンだけでした。
ポール・ゴーギャン(1848〜1903)
ポール・ゴーギャンは1848年ジャーナリストの息子に生まれます。父がナポレオン3世のクーデターに巻き込まれるなど、幼いときから苦労して育ちます。
成人後は株式仲買人としてつとめ、妻メットと結婚。趣味として絵画制作をはじめます。しかし、株式が暴落し、絵画を生活の糧にしなくてはならなくなります。妻メットの働きでなんとか糊口をしのぎますが、彼女との間に隙間風がふきます。そんなとき、テオからの手紙を受け取ったのです。
ゴーギャンとしては、画商のテオに恩を売っておくことで、のちの助けになるのではないかとの思いで、ゴッホとの共同生活を引き受けます。
アルルでの共同生活は最初は上手くいっていたものの、二人の芸術観が噛み合いませんでした。ゴッホは次第に追い詰められていき、左耳を切り落として娼婦に渡すという事件を起こしてしまいます。ゴッホは精神病院に入院させられ、ゴーギャンはアルルを去ります。
精神病院から療養所に移り、病状は安定したと思われましたが、1890年ゴッホは亡くなります。享年37歳。自殺とされていますが、不自然なキズのため、他殺もしくは事故ではないかとも言われています。
彼を支え続けた弟テオもなくなり、その妻ヨーの尽力によって評価されるようになります。
ゴッホと別れたゴーギャンはパリに戻りますが、妻との関係は悪化したため、ポリネシア諸島のタヒチに逃れます。何度か帰国しますが、現地の人々や文化を描くようになります。
ゴッホとは再会することはありませんでしたが、手紙のやりとりは続けています。ゴッホの死後、ひまわりを描いています。ひまわりといえばゴッホですし、タヒチにはない花なので、わざわざ種を取り寄せて描いたのでしょう。当初はテオとの縁故づくりで引き受けたゴッホとの共同生活でしたが、彼への思いを馳せることもあったのかもしれません。
ゴッホの死から13年後、ゴーギャンはタヒチで亡くなります。享年54歳。
実は私、ゴッホの作品が苦手です。魂を削られる感があるというか、彼の作品をずっと見ていると、疲れてしまうのです‥。私だけなのかな‥??
ゴーギャンはゴッホに比べて器用なイメージです。ゴーギャンは常々自分がゴッホに影響を与えたと言っていたようですが、彼自身もゴッホから影響を受けていたのでしょう。
明日は《無駄話》を更新予定です!
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