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《世界史》名誉革命

こんにちは。
Ayaです。
チャールズ2世の死後、弟のジェームズが後継者となります。しかし、彼はもともとカトリックを公表していたため、即位を認めるか人々の意見は割れました。とはいえ、表立って反対するものはおらず、ジェームズは即位します(ジェームズ2世)。まずはこれまでのジェームズの人生を振り返ります。

2人の妻

ピューリタン革命で亡命を余儀なくされたジェームズですが、1658年姉に仕えていた平民出身のアン・ハイドに出会います。彼女に惹かれたジェームズはアンを愛人にしようとしますが、アンは拒否します。しかし、ジェームズは諦めきれず、王政復古後正式に結婚すると約束し、彼女を手に入れます。
1660年兄と一緒に帰国しますが、ジェームズはアンとの約束を守るか躊躇します。ですが、当時アンはすでに妊娠していたため、兄(女性への手の速さは弟をはるかにしのぎますが)に促され、2人は正式に結婚します。このときの子は夭折しますが、メアリーとアンをもうけます。母アンもカトリックに改宗しましたが、チャールズ2世の配慮で2人の娘はプロテスタントとして養育されます。1671年アンは女子を出産し、亡くなります。

最初の妻アン・ハイド
父は亡命政権の国務大臣だったが、まだ叙爵されておらず、身分は平民だった。1671年2人の娘を残し亡くなる。

妻を亡くしたジェームズは1673年後妻をむかえます。彼女はモデナ公国公女メアリー。勿論カトリック教徒でした。後継者は前妻の2人の娘とされていましたが、もしこのメアリーとの間に男子が誕生したらと人々は危機感を抱いていました。
このような状況下で、ジェームズは即位したのです。

後妻モデナ公女メアリー
彼女との結婚は批判を浴び、彼女は『ローマ教皇のスパイ』と噂された。

名誉革命

人々の心配をよそに、はやりジェームズ2世はカトリックの登用を行ない、議会と対立してしまいます。そのうちメアリーが妊娠、1688年男子のジェームズ・フランシス・エドワード(後の老僭王)を出産します。男子の誕生に喜ぶ国王夫妻でしたが、いよいよ危機迫るということで大貴族たちは先手を打ちます。
極秘裏にオランダに嫁いでいた長女メアリーとその夫ウィリアムを呼び寄せるのです。この事態に気がついたジェームズは軍を招集しますが、すでに民心は離れ、誰も集まりませんでした。結局退位して、妻と息子をつれ、亡命します。

ジェームズ2世の二度目の亡命
フランスのルイ14世の庇護の下、1701年崩御。息子ジェームズ・フランシス・エドワードは親子二代で王位奪還を画策し、『老僭王』と呼ばれ、
その息子チャールズは『若僭王』と呼ばれる。

これが世にいう『名誉革命』です。無血クーデターのため、このように呼ばれました。

メアリー2世(1662〜1694)とウィリアム3世(1650〜1702)

さて、父を追い出したメアリーですが、不思議な申し出をします。自分だけでなく、夫のウィリアムも即位させたいというのです。ウィリアムの母はジェームズ2世の姉のため、王位継承権はありました。人々は困惑しながらも、メアリーの申し出を受け入れます。2人は即位して、メアリー2世とウィリアム3世となり、共同統治を行います。この時、権利の章典(現行憲法の基本となった法律)を認め、立憲君主制の足がかりをつけます。

メアリー2世
すでに妹アンとサラ・ジェニングスの関係を危険視し、アンからサラを遠ざけようとするが、アンに絶交されてしまう。
ウィリアム3世
もともとオランダ総督で寡黙な人物だったが、彼こそ名誉革命の黒幕ではと囁かれた。
メアリーとの夫婦仲は当初は悪かったが、修復したようだ。だが、こどもはいなかった。

1662年メアリー2世は天然痘でなくなり、ウィリアム3世の単独統治となります。1702年乗馬中に馬の足がモグラの穴にハマって転倒する事故を起こし、ウィリアム3世は亡くなります。(肖像画が皮肉ですね)
メアリー2世とウィリアム3世の夫婦にこどもがいなかったので、メアリーの妹アンが即位することとなります。

今日はここまでとなります。ピューリタン革命で亡命生活を送ったジェームズでしたが、結局二度目の亡命生活で亡くなります。祖父ジェームズ1世のように中立を偽っていればよかったのに、兄より苦労を実感してなかったのでしょうか‥。
次回は『女王陛下のお気に入り』で取り上げられていたアン女王についてです!

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