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「この老婆はスーパーサイヤ人か?!」

先日、94歳で亡くなった母は、91歳まで(80代のほぼ全般にわたり)宇都宮で独り暮らしをしていた。生涯を通じて概ねそうだが、この独り暮らしのときも当然、ヘルパーさんなど、他人の手をいっさい借りずに、身の回りのすべてのことをしっかり自分でやり通していた。
老いてもなお、人の厄介になりたくない、という旺盛な自立心だろう。
手間のかからない老人だったので、こちらは大いに助かっていたのだが、その自立心も、息子としては、やや度を越していないかと心配になるようなこともあった。

私と、私のパートナーのSは、月に一度ほどのペースで、宇都宮の母の様子を見に行っていた。
ある日の訪問のこと。いつものように居間の炬燵に座っている母の様子が少しうなだれて元気がないように見えた。近づいて驚いたのは、少し手で隠すような仕草を見せたその目元に、大きな青あざがあるではないか。
「どうした?!」と尋ねると、玄関先で転んで、顔を打ったという。そのときに庇ったのだろう、手も腫れてあざになっている。血も流したようで、玄関先にまだ血がついているはずだという。確認すると、たしかに点々と血痕があった。母の家の玄関には、少し段差があるので、そこにつまずいたようだ。
老人は、足を上げているつもりでもあげ切れずに、ちょっとした段差でもつまずくことがあるだろう。それは仕方ないとして、問題はその後を自分一人で何とかしてしまおうとする母の強情さだ。
「何で連絡しなかったの?!」と聞くと、「こんなものは放っておけば治る」と強気の言葉が返ってきたが、やせ我慢であることは察しがついた。
本人が言うように、確かに少し治りかけてはいるようだ。そうだとしても、転んで顔を打ち、血を流しながら、這いつくばるようにして家に入っただろう母の姿を想像すると、胸が痛んだ。
怪我は確かに辛い。身体が思うようにならなかったショックもあるだろう。しかし、息子に連絡する→医者に連れて行かれる→よもや入院か?・・・といった成り行きを想像すると、連絡するのが煩わしくなる、という母の気持ちもわからないではない。
結局のところ母は、軟膏でも塗って治そう、という算段だったらしい。
精神の気丈さと、衰えていく肉体とが、母のなかで微妙なバランスを保とうとしているかに思えた。

そんな母にも、さすがに息子の手を借りねば、という事態が訪れた。
あるとき、那須に暮らす私たちに、母から珍しく電話があった。
風呂場で尻もちをついて、どうにも腰が痛いので、来てくれないか、という。急いで駆けつけると、二階のベッドに寝ていた。もう一週間ほど寝込んでいるという。
かかりつけの医院に連絡すると、院長先生が、すぐに救急車で連れてこい、という。
すぐに救急車を呼び、医院に搬送。
レントゲンを撮ると、背骨を圧迫骨折しているという。尻もちをついた衝撃で、背骨の底の部分が一部潰れて変形している。そんな状態であるにもかかわらず、風呂場から自分で二階に上がり、ベッドに入ったことになる。しかもその後の一週間、ベッドの中で痛みに耐えていたのだ。すでに卒寿を迎えている老婆に、なぜそんなことが可能だったのか?

当然のことながら、そのまま即入院が決定。
院長先生には、「まあ、これでたぶん寝たきりでしょう」と言われた。
母は以前から、背骨がS字形に極端に湾曲していたので心配だったが、ついに「その時」が来たか、と思った。
顔見知りだった院長先生は、母の年齢も考え、潰れてしまっている背骨の一部を治療して元に戻す、ということではなく、なるべくそのまま固まるよう、本人がいちばん快適に過ごせる生活環境を整えることに専念しましょう、とおっしゃった。
つまり「治癒して自宅に戻ることは期待できないよ」ということだ。医学の常識で言えばそうなるだろう。現に、入院治療後の身の振り方として、系列の高齢者施設などを紹介された。

もちろん、入院当初は「寝たきり」状態だ。
普通はそこで、あらゆる気力が萎えるところだろう。
怪我をきっかけに寝たきり状態、というのがお決まりのパターンだ。
実際、その病院は、寝たきりの老人たちでベッドが満床になっている。ただ、「息」をしているだけの後期高齢者がほとんどなのだ。
おそらく「なるべく快適な環境を」という話を、院長先生は母にも伝えてあったのだろう、個室をあてがってもらった、ということもあって、母は、看護師さんにされるがままの後期高齢者たちを尻目に、自分のベッド周りをいかに「自分好み」にするかを、あれやこれやと考え始めた。
入院当初、日参する私とSに、やれ「〇〇を持ってこい」「〇〇を買ってこい」と指令を発し、両手が届く範囲を何とかやりくりし、自分の「砦」を造作するのに余念がなかった。
狭い一人用のベッド周りが、やがて読書机・兼・化粧台・兼・クローゼット・兼・食卓へと整えられて行った。

そればかりではない、母は肉体的にも驚異的な回復力を発揮し始めた。
まず起き上がれなかった状態から、ベッドの上に起き上がれるようになり、枕を背あてにして坐ったまま読書や書き物ができるようになり、ベッド脇のポータブルトイレで用が足せるようになり、起き上がって洗面台や個室トイレに立てるようになり、院長先生の許可が下りてからは、歩行器を使って歩けるようにまでなった。
その段階的なプロセスは、ものの一カ月程度だったと記憶している。
院長先生も首をかしげるほどの回復力だ。

そんなある日、私とSが着替えを届けに行くと、病院の廊下を、腰を曲げながらも、手摺りに掴まりつつ、歩行器も使わず、黙々と歩いている母の姿があった。
足早に廊下を行き来する看護師さんたちとは一線を画し、ゆっくりと確かめるようにつかまり歩きする母の周囲だけ、別の時間が流れているように感じられた。
「何してるの?」と声をかけると、母曰く。「自主的なリハビリだよ」
そのとき私は思ったものだ。
「この人は、スーパーサイヤ人か?!」

それから間もなくして、母に退院の許可が下りた。
こうして母は、すわ「終の棲家になるか」と思われた病院のベッドという「仮の砦」を出て、自らの「牙城」へと凱旋したのである。

母は決して体格のいい方ではない。むしろ小柄で華奢な方だ。若い頃からスポーツで鍛えた、というわけでもない。そんな母が、なぜこれほどの回復力、生命力を発揮できたのか。
母は、歳をとればとるほど、とにかく「節制」を心がけていた。戦前・戦中派はおしなべてそうなのかもしれないが、とにかく贅沢をしない。歳とともに食が細くなっていた母は特に、少量でも低脂肪・高タンパクのものを努めて摂取するようにしていた。酒や煙草はもちろん嗜まない。早寝早起きを心がけ、庭の草取り、最寄りのコンビニへの買い物、洗濯物は努めて二階に干すなど、できる限り体を動かすようにもしていた。
それでも、骨密度を計ったところ、「骨粗鬆症」と診断されたときには、「わが生涯の不覚」とばかり悔しがったものだ。
どれほどストイックな暮らしぶりでも、肉体は否応なく衰えていく。それを本人も自覚する。それでも生きる気力を奮い立たせ、圧倒的不利な戦を戦い抜かせ、医学の常識をまんまと出し抜くようなかたちで、自宅に戻るという勝利をもぎ取らせた要因はどこにあるのだろう。

そのひとつのヒントではないかと思えるものを、母が遺した日記の中に見出した。
母は、2019年9月30日(当時92歳)の日記に、こう書いている。
タイトルがついていて、「たいの話(限りなく出てくる)」となっている。
●字がきれいになりたい
●詩が書きたい
●小説も書きたい
●短歌も作りたい
●絵が上手になりたい
●歌が上手に唄いたい
●英語が話せるようになりたい
●お金持ちになりたい
●誰とでも仲良しになりたい
●もっと生きいき生きたい
●おいしいものが食べたい
●幸せを感じるようになりたい
●意志強固になりたい
●もっと楽になりたい
●体が健康になりたい
●飲む薬を減らしたい
●お裁縫が上手になりたい
●ミシンが使えるようになりたい
●断捨離して家の中をすっきりさせたい
●14年放っておいた庭木を早く伐採したい
●庭に柿を実らせたい
・・・・・・・・
今すぐ始めたいが、楽しくて役に立つもの
以上の中のどれを優先させたらよいのだろう(とり敢えず字をていねいに)

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