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社会不適合者の考える「お金」と「労働」

あるきっかけがあって、「私の本当の望み」を文章で可視化しようとして筆をとったんだが(公開しないプライベートのノート上で)、どうにも話が逸れてよくわからん方向に行ってしまうので、その模様をここに書いてみようと思った。

働くとは何かとか、お金とは何かとか、幸せとは何かとか、どうにも小難しい話に徐々に逸れていくのだ。
私らしいといえば私らしいのだが。

望みは「金」

結論、望みは何かと聞かれれば、「金。」となりふり構わず私は答えるだろう。
お金はツールであって、あなたの本当の望みではないというツッコミが頭の中で聞こえるので、もう少し掘り下げることにした。

私は自分がいいと思ったものとか、これが真実だと思ったものに対して、常に素直に行動に移していたい生き物だ。究極にわがままな生き物でありたい。だからそういう自由が許されるだけのチカラがほしい。この資本主義の世界において、それってお金でしかないよね。

「自由」なら「ここ」にある

「こうありたい」という願いを金で叶えようとしているわけですね。
いや、本当の意味で我々は自由なのは知っている。頭ではわかっている。

恐れや不安からくる選択肢を選ぶ「自由」をもっている。そうやって私たちを自由にさせておいて、どういう行動をとるのか、常に観察しているのだ。(何の話だ)

時間がないとか、仕事があるからとかいう言い訳は、すべて幻想であって、本当は、究極の自由の基に、恐れや不安をただ選択しているというだけ。

「会社を休めない」を例に考える。

休んだあとに発生するであろう、自分が所属するコミュニティでのいろんな問題とか、そういう面倒ごとを避けるために、「休まず働く」という選択を選んでいるのだ。

私たちは幸福を求め、不幸を避けようとする生き物だ。

自分にとって脅威となりうる出来事が想定された時、無意識に避けようとする。本能的に起こっている。

無意識化なので、仕方なく働かされている感覚しかない。自由など感じられなくて当然だ。

でも「自由」を感じたくば、そういった無意識に動いている自分の本能に自覚的であったほうがいい。

「働かない」という選択肢もとることができるのだとそこで初めて気がつく人もいる。働き続けることによって発生するリスクの方が自分にとって脅威だったのだと初めて気が付く人もいるだろう。

私たちはもともと「自由」なのだ。ただそれに気が付くだけでいい。今この瞬間から。

収入が途絶えるという恐怖

うん、それはわかっている。わかっているけど、なんか物足りない。面白くない。わくわくしない。今この瞬間を生きることによって解決するのはわかるんだけど、なんか人間らしくない。つまらない。もっと貪欲に、素直に、何を望むのか考えていく。

「そもそも働かないことによって発生する脅威をすべて取り払いたいんだけど」

そう思った時に「お金」だよねって話になる。

生まれた時から資本主義社会の競争に放り込まれて生きてきた私たちからしたら、「働かない」ことに対する脅威ってものすごいわけで。
「収入がとだえる」「お金がなくなる」という脅威って相当根深いものだと思う。

さっきも言ったように、私たちは不幸を避けようとする生き物だ。そういう脅威から逃れようと望むことは、何ら違和感なく自然なことである。

みんな不安を避けるためにお金が欲しい。だから嫌なことを我慢して頑張るわけだ。

違和感なくこの世界にはままりたい

というわけで、そう、私の望みの話。

お金が欲しいってのはその通りなんだけど、もっとカチッと歯車の中にはまりたい。働くたびに呼吸が止まるような自分が自分でなくなるような、とにかく毎日苦痛である。

でもそこまで苦痛ではないような、苦痛なような、よくわからない二律背反な思考が存在している。

別に苦痛じゃないよ、幸せだよと言っている私の意見。
何度も転職したこんなわけのわかんない私を迎えてくれる職場があったこと自体奇跡だし、なんやかんやこうして、週末にコーヒー飲みながらnoteを執筆している私がいるのも、働く場所があるからだなあと思ったりする。
働く場所があるって素敵なことだ。自分が与えられた歯車のことだけ考えてれば、あとは生きるために何も難しいことを考えなくていい。今日食べる野菜や米の心配をして畑や田んぼを管理しなくていいし、雨風を凌ぐための家をどうやって建てようかとか考えなくていい。他の人が全部やってくれる。全部自分でやろうとしたらサバイバル能力皆無の私は速攻で人生つむ。
無力な凡人こそ、社会の仕組みの恩恵を受けている。

一方苦痛だよってのは、普通に働くのめんどくさいし、なんか週5で○時〜○時まで働くっていう、縛り付けられている感じも嫌。命令に従うのも嫌だし、会社の価値基準で評価されるのも嫌。(→この時点で雇用契約破綻。)お局にあれこれ本質からズレた要らんアドバスされて「そうですね」て笑顔作るのも苦痛。
特に私は低気圧に弱いのだが、体調が悪いと思ったら気兼ねなく休ませて欲しい。別に気圧が安定してたとしても、理由がなかったとしても「今日無理」って思ったら、寝かせて欲しい。でもそういうのって許されない暗黙のルール何なん(まあみんなで仕事してるから配慮はいるんだろうけど)。それでも私はなんかあるとすぐに休む派だけど、上長に休暇申請を出す時の葛藤はハンパない。同じような人いるだろうか・・・?

気軽に休めていいいねとか言われるけど、この「休む」って行為がどんだけ勇気のいる尊い行為かわかるか?

「ああ私は自由を全うしたぜ」「権利を行使したぜ」「自分の身体を大事にしたぜ」って気持ちに浸ろうとするんだけど、やっぱり心の中は不安でいっぱいだ。結局本質的にチキンなんだよね。でも、チキンのくせに頑張っちゃう私かわいいとかちょっと思う。
どうしてもやめられない。「自分がこうだ」って思ったことを素直に実行に移しちゃう。なのにチキンなので、すごい自分の性格ってチグハグだなって思う。

「働く」を選ぶ私を生きるのです

そう、だから、なんとなく、噛み合ってないねって感覚がある。どこに行っても「不適合」ってなってしまう。

歪な自分。
なんだかしっくりこない世界。
不安や恐れから選択して構築してきた世界。

でもそういう歪さをすべて認めて愛せた瞬間にカチッとハマるんだろうな。

私は収入が途絶える不安を避けるために、明日も会社に行って働く。
嫌だなあとか、また時間追われる日々が始まるのか、今週はどんなトラブルが起きるんだろう、怒られるかな?嫌われるかな?失望されるかな?
思いを馳せれば不安と恐怖しかない。

だから結局、「今この瞬間を生きる」ことなんだよね。

本当にそれ以外ないのです。
望みを叶えるって、結局は「今この瞬間を生きる」ことなんですね。
望みを可視化してわくわくしたら、あとはごちゃごちゃ考えず今この瞬間を生きるだけ。

てなわけで私は明日も会社に行ってきます!
とりあえず収入がある安心を噛み締めて。

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