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今、ここにいる理由【本気のbj22】


助産師で赤ちゃんの睡眠コンサルタントの
中村綺花です。




私が助産師になったきっかけは
2歳半で亡くなった兄の存在。



私が生まれる前の出来事だが、
物心ついたときから
兄の闘病生活の様子を親から聞いて育った。
1歳の時に白血病と診断され
1年半にわたる闘病生活。
注射、採血、抗がん剤の毎日。


「あーと。(ありがとう)」
1歳、2歳なのに、
兄はどんなに痛い処置でも必ずこの言葉をいった。
看護師も兄によくしてくれた。
亡くなった日にはお休みなのに兄に会いにきてくれたり
毎年クリスマスにはクリスマスカードを送ってくれたりした。

私はいつの日か看護師になって人の心を救いたいと思った。


神秘的な出産現場


看護師になるには、成人(慢性期/急性期)・小児・母性・精神・地域と様々な分野があり、それぞれ実習がある。

母性の実習の中で初めての分娩見学。
偶然タイミングが合い、立ち会うことができた。


「痛い。痛い。わーーーーーー」
と叫び、苦しむお母さん。

正直、見るのも辛かった。

しかし、生まれた瞬間、
先程までの痛みはなかったかのように
「生まれてきてくれてありがとう。よく頑張ったね。」
と赤ちゃんに話しかける姿や
女性のお股から赤ちゃんの頭が出てくることの神秘さに感動し
看護師に加えて助産師の資格も取った。



やりきれない思い


助産師になって喜びの場面が多いが、
辛い場面もたくさんある。


特に忘れることのできない、
三人目を生んだお母さん。
妊娠と出産は何の問題もなかった。
順調そのもの。


しかし、産後膣の菌が感染を起こし
敗血症となり
赤ちゃんが生まれて5日後に
そのお母さんは帰らぬ命となった。


退院の前日、そのお母さんは腰痛を訴えていた。
産後は骨盤が歪みやすいため腰痛も起こる。
しかし、
「なんでこんなに痛がるのかな?」と思うほどで
当時の産科医師に相談。



医師の答えは
「他に異常な所見がないため様子を見ましょう。
痛みが続くなら退院して整形外科にいってもらいましょう」
というもの。

気持ちを和らげるために足浴ケアをしたり、
アロマを使用したりしながらお話を聞いた。


勤務が終わる頃には、
お母さんが「痛みは大丈夫です。」
と笑顔で言った。
私は「よかった!」と思ってしまった。



夜勤のスタッフに“何か気になる”
ということは伝え、病院を後にした。



それがお母さんとの最後の時間、
翌日に亡くなった。


医師にもっと強く、しつこく、
“些細な異変”を主張できなかったのか。
知識が足りなかったのか。


どんなに考えても命は帰ってこない。
珍しい病気で致死率が高くても、
絶対にそれを言い訳にしてはいけない。


命を救うために助産師になったのに
目の前で命がなくなることを受け止められず
私は助産師としての自信がなく、
何度かやめようと考えた。


他に資格を取って働き方を変えようと、
出産の現場から半年離れた。


コロナの影響もあって
働く場所にこだわる理由もなく
東京から地元の山口県下関に帰った。


起こることに争わず
流れに身を任せた日々


ある日、兄のお墓があるところの奥様が
頼んでいないにもかかわらず、
産婦人科クリニックに私を推薦してくれ
面接を受けた。


トントン拍子で話が決まり、
もう一度出産の現場で働くことになった。


今思えば、
「乗り越えて」
と兄が背中を押してくれた感覚である。


そこから
「本当に自分がしたいことは?」
「私の何が強みなのか?」
「どうしたら自信を持てるのか?」
「どんな人が社会に必要とされているのか?」
何度も考えた。


『私は命をつなぎ、
一人でも多くの女性と子どもの笑顔を増やしたい!
幸福度を高めたい!』

と思った。


自信がなかった私に
たまたま
このBeauty Japan山口広島大会の話がきた。
3ヶ月、自分と向き合う中で
自信を持つことができるようになった。



そして今ここにいる。


振り返ってみると
出会いや経験、
全ての点と点が繋がって、
線になって、
紆余曲折のカーブを描きながら
たまたま、ここにいることを実感する。


これからは、どんなことがあっても
自分の使命と目的を見失わず
命をつなぎ
目の前のヒトの心を救い、
役に立つヒトになっていきたい。


そのためにも
あと2ヶ月、もっと自分に向き合っていく。
使命を明確にしたい。
一人でも多くの人を助けるために
11/25プレゼンまで進み、自分の想いを伝えたい。



最後まで読んでくださりありがとうございました。

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