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適応障害前に戻る=治る、ではないと思う

家庭教師のアルバイトを無事に始められた。
室長さんにOKもらえた勢いのまま母に伝えて
それに押されたように母は「そう、がんばって。」と曇った顔で言った。


久しぶりの出勤は少し緊張したが以前していた時と変わらない顔ぶれや仕事の流れはそのままですぐ安心した。


室長さんからすると家庭の事情でどうしても今お休みが取りたいのに人手不足でとれなかったタイミングで私から連絡が来たそうで、
「あの時は救世主だと思った、忘れないと思う」とすごく歓迎して下さった。
自分にも人の役に立てることがあるんだなって嬉しかった。


夜働くことになったので必然的に夜の自由時間が減った。その反動なのか昼の時間を有効活用しよう、と思い始めた。


最近は毎日1冊本を読んで自分の考えをまとめる作業をしている(昨日で3日目、今日は本は読めないけどこれを書いているのでいっか〜というゆるルールで実質三日坊主になっている)。


本を読むのは以前すごく好んでしていたが、休職してからは手をつけていなかったのですごく久しぶり。コロナ禍で大学の通学もない時に特に読み漁っていた実用書の類をまた読めるようになったのはだいぶ元気になってきた証拠なのだろう。状態が良くない時は良い方向に向かうように何かしようとか、前向きに生きようとかそんな気すら起こらなかったから。


最近、診断前までの自分に戻る必要はないよな、と思うようになった。


過去の勉強熱心で、できることは自分でこなして、興味や明るい感情もたくさんあって生き生きしてたそういう自分に近づけていきたいな、と思う私が完全に消えたわけじゃないけれど。治る=そういうことだと思っていたこともあったけれど。


なぜかそうするのは退化な気がしている。
以前はとにかく自分を取り囲んでいる要素だけは多かった。いろんなところにパワーを使って、削がれて、補って。要素が多いから充実している気になっていた。


今は要素こそ少ないけれど、離れかけていた推したちに熱が戻りつつあるし、恋愛していなくても大丈夫だってわかったし、要素が取捨選択できてきて自分が本当に欲しているものがほんの少しずつわかるようになってきたと思う。


“正社員じゃなきゃ、何かにならなきゃ“
“一回失敗したら価値がない“
“あの人みたいに自分も頑張らなきゃ“
自分を苦しめるような考え方を自分が強いていたあの時から、他人から見たら状況は退化しているようでも、私からすれば今の方が内面が成長したように思える。


今の方が穏やかに生きられている。


アルバイト始めて本を読み始めて、新しいことして少し気分が浮ついているだけかもしれないけれど珍しく「今が少し楽しいかもな」と思えたのでたまにはプラスの気持ちも残しておこうと思う。


バイト生活をやり続けても自立できないことには変わりないんだけど。(最近1人暮らしできるところまでいきたい気持ちが芽生えた)
とりあえず1つ行動し始められたということで。まずは楽しんで。





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