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本性

自分の本性が時々わからなくなる。そんなことは10代の悩みだと思っていたけれど、40代の今も、ふと疑問に思うことがある。

昔、裏表がある人間が嫌いだと言う上司がいた。相手が誰であろうと同じスタンスを保つべきだから、どこでもいつでも誰に対しても貫ける顔を持てと教えられた。彼に楯突いたことはないが、心底では違和感しかなかった。

私は、優しい嘘はつくべきだと考える。その延長線で、臨機応変に七変化できる器用さも重要だと思う。本性にせよ、真実にせよ、そもそも実在するのかどうかが怪しいと感じるからだ。

本性とはどれか? 自分が思う自分の姿か?それとも他人が思う自分の姿なのか?もし、他人が思う姿が本性だと言うあれば、本性は1つではないことは明らかだ。もっと掘り下げると、自分視点か他人視点かという問いがある時点で、本性とは複数存在するものだと憶測できてしまう。つまり、これがこの人の本性です!と宣言できるものはあるようでないし、ないようである。そして、真実も然りだ。

だから、自己判断で必要だと決めた場面で必要な対応をするのが適切な優しさなんじゃないかと信じている。朝令暮改に大賛成だ。

それなのに、定期的に、自分がどんな人間なのか?という淡い疑問を抱く。

そして、毎回同じ結論に行き着く。なんでもいっか、と。自分がどんな人間か、本性を分かっていなくても問題ない。でも、自分がどうありたいか、巡り合った人たちにどう覚えられていたいか、という願望と目標は見失ってはならない。その自画像に毎日丁寧に色を塗り続ける。そのために、行動の身辺整理を欠かさずに実施する。本性は如何様にも変えられるはずだ。

そう信じてきたのだが、実は、最近、揺らぎ始めた。後期高齢者になった母や叔母が原因だ。

人は、年と共に素直になるのだ。より一層その人らしさが増す。すると、ヒョッコリと顔を出す性質が浮き彫りになる。その性質がこちらに都合いいものであればラッキーだが、悪い場合はとても困る。そして、そういう面について、怒っても叱っても諭してもお願いしても無駄なのだ。高齢者はそう簡単には変わらない。だから完敗だ。あぁ、これぞ本性ってやつなのか…と、自分の間違いを認めざるを得ない。

人との仲は、いいところも悪いところも、健やかな時も病める時も、丸ごとを受け入れるかすっかり訣別するかの二択なのだ。本性は手強い。

だからこそ、考える。

長生きした場合にヒョッコリと露呈する自分の本性をイイものにするにはどうしたら良いのだろう。その本性は自分で変えられないのかもしれないが分からない。だから、変わるに賭けるしかない。どう考えても、このままではヤバイババァになる。

道は3つある。

1つは、今から悪い本性を丸出しにして消耗する作戦だ。性格も、長年起用していれば減るかもしれない。それが叶わなくとも、周りは慣れるか去るだろうから、ババァになってからかける迷惑は減るという目論見だ。

あるいは、トリセツを作成し始めるのはどうだろう。私はこういうところがある。その性格が発症したらこのように取り扱えばいいなどのアドバイスを書き出しておくのだ。そして、60歳の誕生日に公開する。

最後の案は、ヤバイババァになる直前に引っ越す! 誰も知っている人がいない土地へ1人で移れば、人間関係を1から築かなければいけなくなり、高齢にもなればさすがに1人では生きていけないので周りの方々から助けてもらえるようにきっと努力する。そうなると、悪い本性が出る幕がなくなるはずだ。

結構真剣に考えた3案だが、どれも失笑ものだった。だから、せめて、悪い本性もひっくるめて面白がってもらえるように生きていこうと思う。

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