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何を書いて生きていく?

SNSのアカウントをたくさん持っています。Twitterで10以上ある。表現することが好きで、色々やって、書くことと話すことに落ち着きました。色んなものを書いてきました。日常、会話の内容、夢、創作、メモ、えとせとら。手持ちのアカウント全てで毎日呟いてるわけでもないけど、要らないアカウントは適宜消しているので、今残ってるのは必要だとか、使わなくなったけど呟きを残したいと判断したものたちです。

わたしは、自分を晒すことが、苦手です。


苦手とは、ちょっと違うのかもしれないけど。自分に自信がないんですよ。やりたいことをひとつの人格で全部やることや自分のことをたくさん出して嫌われることが怖いから、結果的にアカウントをぽこぽこ作って全部で違うことをしている。全てに違う名前を与えて、わたしを幾つかに分けて小出しにする。全部わたしの分身です、という建前で、でも誰も全てのアカウントを知らないから、わたしの全ては拾い集められないように。むしろ多くを知られることを避けるようにわたしはわたしを切り裂く。そうやって、いつも傷つかないように逃げ道を建設していた。逃げ道があることで、ようやく自分を少しずつ、文字列に乗せられるようになった。


Twitterを通して、色んな方と知り合った。リプやDM、通話なんかを通して親しくなった方には、複数のわたしを教えた。複数のわたしを見てほしい、本当のわたしを知ってほしいという傲慢さで。いっぽう傷つきそうになると、わたしは分身を、名前を放棄した。とかげの尻尾切りみたいに。都合良く。その名前のわたしだけが傷つけば、済むように。気がつけばわたしのやることはどれも中途半端で、逃げ道を作ることが、一番上手くなっていたし、大したものが残っていなかった。


日常も、考えたことも、そのときの自分も、あとには残らない。他愛もない会話も、ふと思い付いたくだらない思考も、そのときの自分も、形には残らない。振り返りたくなったとき、そのときの自分には、決して会いに行くことができない。残しておきたくて、会いに行きたくて、エッセイが書きたいとTwitterでも配信でも言ったけど、恐らく本当はわたしみたいな逃げ癖のある人間に人を惹き付けるような力のあるエッセイはまだ書けない。エッセイには、人の様々な面が現れるし、時間経過が与えるものがあると思っているからだ。わたしは自分を晒して呆れられたり、失望されることが怖いのだ。過去を掘り起こされることが怖いのだ。結果としてわたしは自らを小分けにしすぎたし、ときに安直に放棄したし、それに慣れてしまった。誰も知らない場所でしか、わたしは本当の自分になれなかった。それなのに、たくさんのアカウントを運営することで、知り合いばかりが増えて、誰も知らない場所は、減ってゆくばかり。


本当のわたしを見てほしいのに、それは誰にも叶えてもらえない。

(当たり前だよ、わたしはわたしの全てを見られることを、恐れて、避けているのだから、)


そんなわたしでも、エッセイを書いて、いいかな。逃げ道を敷くことを、少しずつやめても、いいかな。
そうやって今を残していくことで、いつか、未来のわたしが、今のわたしに会えるように。過去への道筋を編んでゆきたい。

そしてわたしはこれを読むあなたに、わたしの輪郭に、少しずつ触れてほしい。今のわたしを覚えていてほしい。ただし、乱暴に触ると逃げる恐れがあります。優しく触れてください。



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