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空って何

仏教で「維摩経」というのがあって、在家の仏教信者である維摩さんの物語。

日本に伝わった大乗仏教を考える上で大事な経典なので気になっていて、NHKの「100分de名著」で見た。

お経とか一人で読んでもなかなか分からないので100分de名著、助かる。

維摩さんは、他の人たちを教え導く立派な人なんだけれども、病気になってしまう。

そこで釈尊は自分の弟子に頼んで、お見舞いに行って欲しいと言うのだが、なんと、弟子たちはみんなお見舞いに行くことを断る。なぜなら維摩さんは非常に論の立つ人であって、みんな維摩さんに批判されてやり込められた苦い思い出があり、お見舞いに行ってまた同様の目には遭いたくないと思っているから。

釈尊に頼まれて、しかも病人のお見舞いなのにそんな理由で断るんだ。。。

とも思うけど、維摩さんはそれくらい恐れ多い人、そして仏教はたとえ釈尊の直弟子であろうと辛辣な批判を受けることによって、思想を発展させ、大乗仏教が生まれたのだと分かる。

最終的に、渋々(笑)お見舞い役を引き受けたのが文殊菩薩で、え、そしたら文殊菩薩vs維摩さんの問答が聞けるの、それ、聞きたい!となり、結局、維摩さんへのお見舞いは大変な人混みの中で行われたようだ。きっと、行きたくないと断った10人の弟子たちも結局、行ったんだろうな。。。

そのお見舞いでは維摩さんパワーで色々と不思議なことが起こるんだけれども、私が注目したのは文殊菩薩の維摩さんへの質問。文殊菩薩は維摩さんに、

人はどのように、病の苦しみから逃れることができるでしょうか。

と質問するのだ。病気の維摩さんをお見舞いに行って変な質問するなと思うけど。だって病気の人にそんなこと聞くかな。文殊菩薩は維摩さんの病気を仮病だと思ってるんだろうか。

維摩さんの答えは、空を知ることだという。病気で苦しんでいる、と思っている「自分」という存在も、本当は空なのだと。

空か。。。

大乗仏教の「空」って何ですかと、田口先生の東洋思想の講義でも何人もの人が質問していた。仏教の概念は言葉で説明したり理解できるものでもないけれども、私自身が今回の病気で感じたことで言うと、例えば私の体とか命というものは、私以外の命の活動(例えば、医学の進歩とか、どの病院でどんな治療を受けるか、輸血用の血液は使えるか、骨髄移植のドナーはいるのか)との関係によって、たまたま今、成立しているものに過ぎなくて、それは、他の事象やそれとの関係性が移り変わってゆくように、移ろうものであって、それ自体に、つまり私の体、私の命、というものが何か他から独立した実体として存在しているのではない、ということなのかなあと思っている。

「空」は無い、空っぽ、ということとは違うと思う。関係性、他の命との繋がりの中で移ろい続けるもの、というようなことなのかと感じている。

空に気づくことが病の苦しみを脱するヒントになる、というのは、おそらく、他との関わりに感謝の気持ちを持ったりだとか、あるいは自分も奉仕だとか、他に対する慈悲の心を持つようになるからなんだろうなあ。これは、不思議なんだけれども、病院みたいな場所にいると、本当にお年寄りには親切にしなければならない、とか、病気の子どもは可哀想だなあというようなことを強く感じる。

自分が病気をしてみると、命どころか、自分の体だって自分では何一つどうすることもできないと分かる。血圧を上げたり下げたりすることもできないし、血液中の何かの成分が異常値であることを自分ではどうにもできないし、食欲だって、無ければ食べられなくて、それを自分で何とかするとか、できない。怠ければ起き上がることもできなくて、自分では如何ともし難い。空の働きにより、少しづつ回復してゆく自分の身体機能に気づいて、ありがとうと感謝する以外、私にできることはないとつくづく思う。

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