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うまく感じられない感情をどうにか表そうとしたら、そこにうたが生まれた

こんにちは。
むらせあやです。みんなからはあやめと呼ばれています。

東京・千葉で中南米の楽曲を中心に、しずかな情熱に満ちたあいのうたをうたっています。こんなかんじです。(所要時間:約2分)

noteでは、自分の創造性を信頼するためにわたしが辿った過程を記していこうと思っています。音楽にまつわる圧倒的ななにかを持たざると知りつつも、素直に自分と向き合い日々表現を育むなかで見つけたゆたかさの記録。

ある日ものすごく疲れていた。疲れていて、そしてとても悲しかった。疲れのせいかうまく悲しめずにいて、胸のあたりがぎゅうっとしていた。

喉になにか詰まったような感覚があり、そのなにかを吐き出したくて声を発した。おなかの辺りから湧くままに音を出していたら、それは意味を持ったことばになった。

ぽたぽたとなみだ落ちる
悲しみが胸にあると知る

ただただ感じて
ただただ泣いた

ぽつりぽつりと唇から生まれた音は、連なってひとつのメロディになっていた。消えゆくものを辿るように反芻し、その味わいを確かめるようにもう一度口ずさむ。

すると、からだの内側にあった滞りがすうっと解けていき、悲しみが体の内から湧いてくるのを感じた。そこでようやく涙が出た。

悲しみに満ちた瞳
瞬きもできぬほど ただただ泣いて
ただただ眠った

こんなふうにうたが生まれたのはもちろんはじめてで、それゆえに貴重な体験だった。次の日、ボイスメモに残した音源を音楽仲間に聴いてもらった。

これがそのボイスメモ。

ふだん、このすんとした暗さを人に直接表すことはない。だってわたしがわたしとして、ただ感じていればいいものだから。

もちろん「感じたこと」としてシェアする機会はある。でもその時は、なんていうのかな、感じている瞬間は過ぎ去っていて「うす暗さ」そのものをビビッドに伝えているわけではない。それは単なるエピソードだ。

しかしこのうたはかなしみそのものだった。「作品性」とかそんなものは一切ない。これは感情表現とか発話の一種だと思った。

内側で滞っていたどうしようもない気持ちをうたうという手段で取り出しただけ。だからあのときの静かに薄暗い悲しい感じがそのままここにある。

作品として意識的に曲をつくれるんだったら、本当は明るい気持ちになれる曲をつくりたかった。コロナウィルスが世界中を席巻してからというもの、人を楽しませくつろがせる音楽の威力にたびたび涙し癒されていたから。

しかしいざみんなに聴いてもらったところ、「私たちには完全にいやしですけれど!」「今の私とシンクロするような歌だよー!」と、このうたの暗さは案外好意的に受け入れられて驚いたのだった。

そのうえ翌日、アレンジ演奏がついた音源が届いて、逆にわたし自身がそのやりとりに癒されてしまった。その音源がこちらであります。

まるで、あらかじめその音がそこにあると決まっていたかのような配置。一緒に演奏しているかのようなフィット感。なにより「すっきり明るく悲しむ」ニュアンスが加わって、よりセンシュアルな世界が立ち上がっていた。

ほんと、不思議な気持ちで何度も何度も聴き返した…。

わたしひとりの世界では、悲しみは悲しみでしかない。でも聴く人が「どう聴いたか」には、また別の豊かな世界が広大無辺に広がっていた。しかも、その中からわたしとの接点を見つけだし心地よく応答してくれている。

だってピアノの音が、悲しいままのわたしでいながら明るくうたわせてくれていたのである。わたしの願いを汲んで音を選んでくれたそのやさしさよ。

そんなことが起きるんだよ、ふたりで奏でると。もう震えるしかない。嬉しくて嬉しくて、ほんと、何度も何度も聴き返した。もう何度も何度も…。一緒に演奏できるって素晴らしいよね、嗚呼。

実は悲しみの引き金は、星野源さんと安倍首相のコラボ動画だった。もちろんほかにも日常で起きたいろいろが重なってもいたが、あの動画にはどこかとどめのスイッチを押された感じがした。

文字数をあまり割きたくないが、ひとつだけ。

コラボレーションというのはさ、「企画者の意図を正確に汲み、また自分自身の持っている文脈をも把握した上で、両者の営みがより発展的なかたちで花開くように、創造的に関わること」だと思っている。

そこからあまりにもかけ離れた制作物と、ネット越しながら対人関係を必要とする場面で、不適応と言わざるを得ないコミュニケーションを目の当たりにして、たいそう辛くなってしまったのだった。

安倍さん、他者の声をありのままに聴けているのだろうか。もしかしたら自分の声も聴こえてないんじゃないかとさえ思う。

わたしには安倍さんが星野さんの意図を汲んだとは感じなかったし、1対多のコミュニケーションにおいても、受け手への想像力をひどく欠いた表現だったと理解している。なにより多くのミュージシャンを傷つけてしまった。

だからね、うまく言えないんだけれど、この悲しみをね、こんなかたちで音楽にできてね、それを分かち合ってみたらばね、コラボレーションが自然と生まれたというのにね、わたし本当に癒されたのでした。

みんなには悲しみの理由を伝えていなかったから、なおさら響くものがあったの。こんなすてきな仲間と音楽を奏でられる幸運を噛みしめている。

音楽仲間のことは改めてちゃんと書こうと思うが、彼らとは「はなうたからつくる音楽会」という講座で出会った。講師である作曲家の西井夕紀子さんが、はなうたというシンプルな事象からゆたかに情報を引き出し、「作品」として味わえるかたちに整えるまでのプロセスをガイドしてくれる講座だ。

わたしはここで音楽の持つ凄みを改めて体感したし、できることがひとつずつ増えていった。なにより音楽理論を知らなくても、自分の創造性を信頼できさえすれば手慣れた動きと未知からやってくるインスピレーションを組み合わせて、からだで音楽を生み出せると知ったのでした。

その事実を知ることで「専門的に学んでいないと音楽はつくれない」というイメージから自由になれてすごくよかった。作曲や演奏が特別な才能のある人たちだけのもの、という世界から卒業できた感じがする。

知識はもちろんクリエイションを支えてくれる大事なツールだけど、それが「本格派ごっこ」という偽りの優越感を得るための手段として利用されてしまうことだってあるから、上手に学び利用していけるようになりたいな。

まとめると、音楽は人を癒す力がある。そしてエネルギーの循環は、技術的な巧拙に必ずしも依存しなくて、音楽を媒介にしたコミュニケーションに宿るんじゃないか、という話でした。

だとしたらこの先、わたしが歩む道は明白だ。

エネルギーをもりもり感じる音楽をもっと聴きたいし奏でたい。見た目が美味しそうなりんごに価値を置く時代はもうほんとここで終わりにして、栄養価の高いりんごを求めよう。

たとえいびつな形であっても、からだがよろこぶ美味しさは、確実にわたしを健やかにするから。美味しいと感じるりんごを育て食べる。この自分のちいさな選択が、願う未来のひとしずくとなることをわたしは信頼している。

らぶ。
 

西井夕紀子
https://www.yukikonishii.com/
「はなうたからつくる音楽会」 
https://hanauta0329.peatix.com/?lang=ja
Live music by Pf:佐藤まさみ B:土谷周平 D:公手徹太郎
かなしみA composition  by  村瀬彩
かなしみB Arrangement & music by  西井夕紀子
Photo by 4hintaro

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