18

 ゆらを取り囲んだ木々は、どこかのっぺりとしていて、色がぼやけていた。
 立体感に乏しく、鬱蒼と繁っているはずなのに奥行きを感じない。
 それは彼女が踏みしめている大地も、遥か遠くに見える白い城壁も、青い空も照りつける太陽の陽射しも同じだった。
 この空間全体が、現実では有り得ないほど単純な色彩でできている。
 それもそのはずだろう。
 どうやらこの世界は、どこかの絵画がもとになっているようなのだ。
 森の樹木に近付いてみると、そこにはっきりと筆跡が確認できる。物体の陰影すらも色の濃淡で表現されていて、実際に光が降り注いでいるわけではない。
 芸術家の描いた絵にしては構図も色使いも稚拙なので、おそらく満智が過去に読んだ絵本か、もしくは彼女本人が描いた絵に違いない。
「メルヘンの世界ね」
 いかにも読書好きの彼女らしかった。

『客人か。初めてだな』
 森に野太い男の声がこだまする。
 ゆらの左手にある、ひときわ立派な木の枝に、一匹の大きなフクロウが止まっていた。
 二次元を立体化させたような空間にあって、そのフクロウとゆらだけが、リアルな三次元を構成している。
『何用か? あの小娘はどうした?』
「彼女は来ませんよ。今日はわたしがお相手をします、悪魔ストラスよ」
『ほう、我を知る者か』
 ストラスが歓迎するように、翼を左右に広げた。
 ずんぐりとした体躯、全体的に茶色がかった羽の色。外観はシマフクロウに酷似している。頭に大粒のエメラルドがはまった黄金の冠を被り、ニガヨモギの葉をくちばしに咥えていた。
『しかして、何が望みか?』
「お願いです、彼女を解放してあげて下さい。このままあなたを宿し続けていては、彼女は潰れてしまいます」
『それはできぬ相談だ』
「なぜ?」
『我とて、好きでこの場に居座っておるわけではない。出たくとも抜け出せんのだ』
 ストラスはそう言って、首を180度回転させた。
「それならば、わたしがお手伝いできると思います」
『いかようにして?』
「この本を使ってです」
 ゆらはソロモンの小さな鍵を頭上に掲げた。ストラスの首が、再び回転して前を向く。
『つまり、我を彼方へと送り返そうというのだな?』
「人間の肉体はやがて滅びます。どちらにしろ、永遠にこの場に留まることはできません」
『肉体など、朽ちたら次へと乗り換えればよい。小娘の意識を乗っ取れば、それも可能であろうが?』
「わたしが外の世界に戻り、この手で彼女を屠れば、それも適わなくなります」
 ゆらの怜悧な瞳が、悪魔を睥睨する。

 彼女に魔術の手ほどきをしてくれたイギリス人の先生は、よくこんなことを言っていた。
「ゆら、悪魔に対しては駆け引きが重要なのよ。驚くかもしれないけど、悪魔は人間に悪意も敵愾心も抱いていないわ。彼らにとって、人間はただの遊び道具。だから興味を抱かせたり、利になる条件を提示してやれば、彼らはちゃんと話に乗ってくる。交渉次第では、知識を授けてくれたり、わたしたちに手を貸してくれたりもするの。ただし、油断してはいけないわ。悪魔はいつでもこちらを観察している。そして隙あらば、わたしたちを迷わせ、混乱させ、絶望へと誘おうとする。
 まずは、何事にも迷わない、何事にも惑わされない、確固たる自分を持ちなさい。ゆら、わかるわね?」

『まあよい。この妙に色づいた場所にも、そろそろ飽きて来た頃だ。条件次第では、お前の話に乗ってやらんでもないぞ』
 ストラスが言った。
「条件とは?」
『我を呼び出した、あの女と話がしたい』
「今、あの女と言いましたか?」
 ゆらの脳裏を、ある一人の女の顔が過ぎった。ゆらとは6つ年の離れた姉、棚橋れの。
『そうだ、人間の女だ。お前とは比べ物にならぬ強大な魔術の使い手であったな』
「本当に、彼女があなたを召喚したのですか?」
『くどいぞ』
「失礼しました。しかしわたしは、彼女の居所を知りません。ただ、彼女に会うのはわたしの望みでもありますから、お手伝いはできると思います。それでは不服ですか?」
『要領を得ぬな。まあ、よいわ。これ以上、この場に居座っても得るものは少なそうだからな。お前を信用したわけではないが、一度身を引いてやろう』
 ストラスが翼を左右に広げた。
 樹木の枝から、野ネズミを狙うハンターのごとき速度で滑空する。音一つ立てず、瞬きする間もあればこそ、ストラスはゆらのすぐ目前に着地していた。

「大きい……」
 遠近法が狂った空間では分からなかったが、フクロウの体長は2メートルをゆうに超えていた。上から覆い被さるような威圧感に、ゆらは思わず一歩後退する。
『さあ、どうした? 我を送還せぬのか?』
 悪魔が嘲笑した。
 ゆらはムッと唇を結ぶと、茶色表紙の魔術書を手の中で広げた。そこには悪魔を元の世界に送り返すためのシジルが描かれている。
「悪魔ストラスよ」
 彼女がそう呟きながら歩み寄った、そのときだった。
 ヒュウッという風切り音がして、地面から激しい風が舞い上がった。ストラスがその巨大な翼を羽ばたかせたのである。
 ゆらは呻きながら目を瞑り、足元をよろめかせた。
『抜かったな、小娘よ! 我が人間の言葉に大人しく従うとでも思ったか!』
 ストラスが嘴に咥えていたニガヨモギを吐き捨てた。
『ソロモンの小さき鍵、我がもらい受けるぞっ!』
「抜かったのは、あなたのほうです!」
 魔術書に狙いを定めた嘴の一撃を予測したかのように、彼女は素早く前転してそれをかわした。
 起き上がる勢いで、悪魔の懐に飛び込むと、白い羽毛に腕を突き刺すようにして、魔術書のシジルを押し付けた。
『いや、待て! 勘違いするでないぞ。今のはお前を試しただけ……』
 虚を突かれたストラスが、命乞いをする。
「悪魔よ、立ち去りなさい!」
 ゆらの掛け声と共に、シジルが光彩を放つ。
『ぎゃああああああっ!』
 悪魔が断末魔の叫び声を上げた。
 その全身から羽がボロボロと抜け落ち、黒い塵となって消えてゆく。
 ストラスは苦し紛れに羽をはばたかせて抵抗する。強烈な風圧がゆらの頬を叩くが、その勢いも叫び声と共に次第に小さくなり、そのうちに何も聞こえなくなった。
 光が収まってゆらが目を開けると、ストラスが立っていた場所には黒くて丸い影のようなシミが残っているだけだった。
 2匹目の悪魔が退治されたのだ。
「思ってた以上に、うまく行った。騙されたフリは、別に悪魔の専売特許じゃないから」
 ストラスを手の届く位置に下ろした時点で、ゆらは半ば勝利を確信していた。もちろん悪魔が魔術書を狙ってくるであろうことも、予測済みであった。

 さあ、急いで戻らないと。
 彼女は満智のインナースペースをぐるりと見渡す。そこで一つの事実に気が付いた。
「どこも壊れてない」
 悪魔がいなくなったのに、空間は現状を維持している。沙和のときのように、足下から崩壊が始まると思っていたので、これは意外だった。
 正直、理由は分からない。それだけ彼女がこの世界に傾けた愛情が強いということだろうか。インナースペースについては、まだまだ解き明かせない未知の部分が多い。いや、どれほど研究が進んだところで、人の心の世界を完全に解読することは、誰にもできないだろう。『内側の宇宙』と言われるぐらいだ、その広大さ、複雑さは人知を超えている。
 ──だけど、これで少しは希望が持てるかも。
 満智の記憶への影響が軽減されるのなら、それに越したことはなかった。
 ゆらは祈るような気持ちで、彼女の精神世界を退去した。







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