35

 病院の中庭にある、ナラの木陰に多希の姿を見かけたとき、ゆらは締め付けられるような胸の痛みを覚えた。他人の不幸は顧みないと割り切ったつもりだったのに、まだこんな感情を残していたなんて。いや、これは多希だから特別なんだ。それだけ彼女の存在が、心の支えになっていたから。
 天気は雲一つない快晴だった。午前中から気温はぐんぐん上昇し、じっとしているだけで肌が汗ばんでくる。澄み渡った青空は、本格的な夏の到来を予感させた。
 多希は病院が用意した車椅子に座って、ぼんやりと中庭の芝生を眺めていた。
 その表情からは一切の感情が窺えない。
 今、彼女の心の内側は、どうなっているのだろう。穴の空いたスポンジのような状態なのだろうか。自分に関する記憶は、どの程度残っているのだろう。
 ゆらが歩み寄って行くと、車椅子の後ろに控えた香恵が、皮肉めいた口調で言葉を投げかけた。

「どの面下げて、先輩に会いに来れるんだろ」
 三緒と由宇に聞いたところ、多希の身の回りの世話は彼女が一人で取り仕切っているという。かいがいしくも、一日も休まず病院に通い続けているそうだ。
「お別れの挨拶に来たのよ。少しぐらい、いいでしょう?」
「どうぞご勝手に。先輩はあなたのこと何にも覚えてないでしょうけど」
「そうさせてもらうわ」
 ゆらは車椅子の正面にしゃがんで、多希と対面する。
 血色は悪くなかった。少し痩せただろうか。
 こちらから視界に顔を近付けると、多希の見開いたままの黒眼が微かに揺れた。だが、それはゆらを認識したというより、いきなり映り込んだ人の顔に戸惑っている感じだった。
「多希先輩、ゆらです」
 反応は無い。
「明朝、ここを発つことになりました。行く先は九州の鹿児島です。先輩とは離れ離れになってしまいますが、向こうに行っても先輩の回復を心から願ってます」
「いけしゃあしゃあと」
 香恵がせせら笑うのを無視して、ゆらは続ける。
「先輩、こんなところで立ち止まってはダメですよ。失くした記憶は、また作り直せばいいんです。先輩なら必ずできますよ。また元気になったら、一緒に買い物に行きましょうね」
 肘掛に乗せられた彼女の手に、ゆらは自分の手を重ねた。
 けれど、反応はやはり無い。

「空しいでしょ? 彼女はもう、お人形さんと同じなの。こっちの呼び掛けは時々理解してくれるけど、彼女のほうから何かアクションをくれることはない。香恵のことは、看護婦さんと思ってるみたい」
「その割に、随分と楽しそうね」
 ゆらは立ち上がり、彼女を鋭く睨み付けた。
「すっごく楽しいわ。先輩の側にずっと居られるんだもの。今までは、香恵がどんなにアプローチしても、素っ気なくあしらわれて終わりだった。先輩との間に、大きな壁が存在していた。それがどう? 今じゃ、香恵の手助け無しには食事だってまともに取れないのよ。先輩のなかで、香恵の存在が日に日に大きくなって行くのが分かるの。もう誰も、わたしたちの絆を断ち切ることはできないわ」
「独占欲の権化って感じね」
 辛らつに吐き捨てる。
「いけない? 愛する人を独り占めしたいって気持ちは、ごく普通の感情だと思うな」
「あなた以外の誰かだったら、わたしも寛容になれたんだろうけど」
「それは、香恵が悪魔憑きだからってこと?」
「その通りよ。悪魔が近くにいては、先輩だって安心して療養できないでしょう」
「だったら、どうするっての? 香恵の悪魔も手にかけるつもり?」
 香恵は腰に手を当てて、挑発気味に胸を反らす。
 中庭の芝生では、病院の患者や看護婦たちが日向ぼっこに興じている。人目の多い場所で魔術は使えまいと、計算ずくの態度であった。
「一つだけ、質問いいかしら?」
「何?」
「どうして高一のあなたが、悪魔の宿主なの? あのパーティーが開かれたとき、あなたまだ中学生だったでしょ」
「うちの父親に頼んで、チケット流してもらっただけ。もうその時には、双魚学園への推薦入学がほぼ決まってたから、先輩方にコネを作っておこうと思ってね」
「じゃあ、あなたもあのパーティーの真の目的を知ってたわけじゃないのね」
「まあね。香恵も後で会長から話を聞いて驚いちゃった」
「パーティーで起こったこと、どこまで覚えてる?」
 ゆらは今一歩突っ込んで訊ねた。
 彼女ははぐらかすように笑うと、逆に質問を返す。
「ははん、まるで警察の事情聴取ね。そんなこと聞いてどうするの?」
「答えられないってことは、記憶が定かではないのね」
「さあ、どうかしら? 魔術を使って調べてみたら?」
 香恵の視線が、ゆらが小脇に抱えた魔術書に注がれる。
「理解したわ。あなたに聞いても満足な答えは得られそうにないってこと。首謀者にとっては所詮、切り捨てても構わない、ただの駒に過ぎないようだし。次の学校で大物に会えるのを期待するわ」
 お邪魔したわねと告げて、ゆらは立ち去ろうとする。

「ねえ、香恵を放っておいていいの?」
「言ったでしょう。小物には興味がないって。一匹ずつ悪魔を取り除いていったところで、首謀者を捕まえなければ、ただのいたちごっこ。あなたの代わりにまた誰かが宿主になるだけのことだもの」
「ふーん、香恵なんて眼中にないってわけ」
 プライドを刺激されたのか、香恵の口調が剣呑な響きを帯びる。
 途端、ゆらの二の腕にぞわりと鳥肌が立った。悪魔の気配が急速に膨れ上がっている。
「今から面白い芸を見せてあげる」
「自重しなさい。ここをどこだと……」
「平気よ。だって」
 香恵が右目をウィンクした。
 すると、ゆらの右脇に掛かっていた負荷が急に軽くなる。しっかりと挟んで持っていたはずのソロモンの小さな鍵が、一瞬にして消失してしまったのである。
 ──えっ!?
 慌てて周囲を見回す。背後から誰かにスリ取られたのかと思ったが、彼女の近くにそれらしい人影はない。
「お探し物は、これかしら?」
 香恵が悦に入った表情で言った。差し出した右手には、ソロモンの小さな鍵が収まっていた。何がどうなっているのか、まるで手品を見ているようだ。
「その場所から、どうやって?」
「面白いでしょ? これが香恵の悪魔セーレの能力よ。遠く離れたところにある物を、瞬時にして手元に持ってこれるの。会長の力に比べれば涙が出るくらいささやかだけど、これはこれで便利なんだよね」
「魔術書を返して」
「ダーメ、動かないで。これが見えないの?」
 ゆらが詰め寄ろうとすると、彼女はそれを制し、ポケットからオイルライターを出してちらつかせた。
「卑怯者!」
「ふふふーんだ。あなたさっき、首謀者がどうのこうの言ったよね。一つだけ教えてあげる。香恵たちは、彼女のことを『零音(れの)様』と呼んでいるわ。零に音と書いて、れのさま。彼女はもうとっくに、あなたの存在に気が付いてる。そして、あなたの手から魔術書を奪うように指令が来ていたのよ」
 迂闊だったとしか言いようがない。
 香恵の実力を測り損ねた、明らかに自分のミスだった。
「魔術書を、返して」
 ゆらの頭に血が上った。ここでソロモンの小さな鍵を失ったら、計画のすべてが頓挫してしまう。それだけは絶対に許されない。わたしを信頼して送り出してくれたお母様の期待に添うためにも、わたしたちを裏切った姉に罰を与えるためにも、こんなところで立ち止まってはいられないのだ。

「動くなって言ってるでしょ!」
 ゆらの鬼気迫る様相に気圧され、香恵が声を裏返して叫んだ。
 病院の中庭に居合わせた人々が、何事かとこちらを振り返る。
「あなたをここで殺してでも、その本は取り戻すわ」
「できるもんなら、やってみなさいよ」
 彼女は頬を歪ませて、ライターに火をつけた。
「さあ、どうするの? 本当に燃やしちゃうわよ」
「その前に、あなたの首の骨をへし折ってやる」
 立ちくらみを起こしそうな極度の緊張感と暑さ。
 二人の様子がおかしいのに気が付いて、別方向から三人の看護婦がこちらにやって来るのが見えた。香恵は多分、叫ぶタイミングを計っている。騒ぎを起こして、そのドサクサに紛れて逃げ切るつもりなのだ。
 そうはさせるもんか。
 一気にケリをつけようと、ゆらが足を踏み出そうとした、その時──。

 彼女は自分の目を疑った。

 横から伸びた一本の手が、香恵の懐から魔術書を奪い取ったのだ。まったく注意を払っていなかった香恵は、突然のことにしばし唖然として固まってしまう。
「先輩……」
 本を奪ったのは、多希だった。
 顔は相変わらず無感情に近かったが、彼女はソロモンの小さな鍵を大切そうに胸の前に抱え込んだ。未だ残っていた記憶の断片。本を守り抜いてみせるというゆらとの約束が、彼女のなかで生きていたに違いない。
「先輩、それは香恵のです。返してくださいな」
 香恵がなだめすかすように、多希に語りかけた。
 ところが、彼女は首をブルブルと振って、本を手放そうとしない。
「本ならば、もっと面白いお話を読んであげますから。ほら、それはこっちに……」
 横から剥がそうとしても、多希は抵抗を続けた。体を屈めて、うーっと低い唸り声を上げて意思表示をする。
 いやだ、誰にも渡さない。わたし約束したんだ。この本はゆらが持ってなくちゃいけない。ゆらを困らせることしないで。
 多希の心の声が聞こえる気がした。
 記憶を失ってもなお、自分を支えてくれようとする彼女の愛情の深さを知り、ゆらは喉の奥に熱いものが込み上げてきた。
「はいはい、分かりましたよ。もう勝手にすればいいでしょ」
 多希の手を緩めようとためつすがめつしていた香絵が、とうとう音を上げて言った。
「どうかしましたか?」
 駆け付けた看護婦たちが、事情を問いかける。香恵は憮然とした表情で、何でもありませんと言い訳した。
 ゆらがゆっくりと、多希に近付く。

「先輩、聞こえてますか? 本を取り返してくれたんですよね」
 正面に立った彼女を、多希が顔を上げて見つめた。
 頑なまでに引き締めていた両腕がするりと解け、ソロモンの小さな鍵をゆらに向かって差し出した。
「ありがとうございます、先輩」
 ゆらが礼を言って、魔術書を受け取る。
 多希はまるで母親に褒められた子供のように、無邪気な笑顔を作った。
 その劇的な変化に驚きを禁じ得ない看護婦たちを尻目に、ゆらは込み上げる衝動を抑え切れず彼女に抱きついた。
 首の後ろに両手を回し、耳元にそっと囁きかける。
「向こうに着いたら、お手紙書きますね。負けないで、早く良くなって下さい」
「ゆら、大好き」
 周囲には聞き取れない、ほんの小さな声だった。
 しかしその瞬間、ごく束の間の奇跡だったのかも知れないが、確かに多希は、出会った頃の彼女に戻っていたのだった。

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