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 差し入れを携えて生徒会室に寄ってみると、満智が書類整理に勤しんでいた。
 せっかくの休日だというのに、午前中からずっと篭もりっぱなしである。仕事熱心なのはよいが、根を詰めすぎて体調を崩さないか心配だった。
「満智、おばさんにサンドイッチ作ってもらったよ。手を休めて、お昼にしましょう」
「あ、副会長、すいません」
 浮かない顔で、彼女は言った。電卓の数字を覗き込み、おかしいなと首を捻る。
「どうかした?」
「いいえ、何でもないです」
 とてもそんな風には見えなかった。
 亜子は彼女の手元に目をやった。学園祭の追加予算申請の集計を行っているようだ。
 四則演算で賄える、簡単な計算式。日頃の彼女であれば、暗算で楽に解けるはずの四桁の数字にひどく手こずっていた。電卓を何度も叩き直し、その度に変化する数字に絶望の声を漏らす。
「んー。この電卓、壊れてるんですかね? それともおかしいのは、わたしの頭のほう?」
 亜子は最初、何かの冗談かと思った。しかし満智の表情は真剣そのもので、額には汗でほつれ毛が張り付いている。
「ねえ、満智。まさか午前中からずっと、それやってるの?」
 恐る恐る訊ねた。
「い、いえ、そういうわけでは……」
 尻切れの語尾が、それを肯定していた。
「本当に、大丈夫? どこか具合悪いんじゃないの? 無理しなくていいから、寮に戻って寝てなよ」
「ち、違うんです。違うんです」
 満智は否定の言葉を繰り返した。シャープペンを持った左手が、小刻みに震えている。
 まだ数ヶ月の付き合いとはいえ、ほぼ毎日顔を合わせているのだから、彼女の身に尋常ならざる事態が起こっているのはすぐに分かった。
 あからさまに怯えた表情。激しい心の葛藤。
 そのとき唐突に、亜子の頭を過ぎったのは、西の池で発見された鴻野沙和の症状であった。

 亜子はサンドイッチが入ったバスケットを机に置いて、手元の椅子を彼女の隣まで運んでいった。そして彼女の肩を掴んで、自分の正面を向かせる。
「正直に言って。何があったの?」
 顔を上げた満智の瞳には、大粒の涙が溜まっていた。
「先輩、わたし……」
「力になるから。恥ずかしいことだったら、絶対誰にも喋らないし」
 すると、彼女は首を左右に振り、
「思い出せないんです。記憶が、ところどころ抜け落ちている感じで」
「いつから?」
「今朝、起きてからです。最初に変だと思ったのは、服を着替えようとした時でした。なぜかわたし、学校の制服のままベッドで寝てたんです。昨日の夜、着替えた覚えがない。それどころか、昨日の夕方以降、自分がどこで何をしていたのかがまったく思い出せません。慌てて日記を確認してみましたけど、昨日の分のページは真っ白でした」
「気を確かにね。普通に生活してても、そういうことが無いわけじゃないわ」
「で、でも、まだあるんです。わたし、読書が好きで、自分の部屋にもたくさんの本を置いてるんですが、一冊ずつ本のタイトルを確認しても内容が全然思い出せませんでした。どこで手に入れたのか、いつ読んだのかすら忘れています。面白かったり、興味があったりした本は絶対に印象に残ってるはずなのに……」
 彼女にとって、それは有り得ないことなのだろう。
「他にはどう?」
「細かいところでは、色々と。計算は……できないわけじゃないです。時間をかければ正解は導き出せます。ただ、頭の回路がうまく繋がってないというか、気持ちが集中できないのもあるし、何だか、自分が自分じゃなくなったみたいで怖くて怖くて……」
「うん。もういいわ。そんなに思い詰めないで、じっくり考えてみましょ。少なくとも、昨日の放課後までは満智は普通だった。ということは、夜から今朝にかけて何かがあったに違いないわね」

 沙和と同じだった。たった一晩で、別人へと変わり果ててしまったのだ。
 しかし、両者には決定的に違う事実が一つだけある。発見された場所だ。沙和は西の池で見つかったが、満智は自室のベッドで寝ていた。つまり彼女たちの記憶障害と、光る幽霊とは無関係と考えていい。
 ──超常現象じゃない。とすれば、これは人の手による犯行?
 例えば、人間の脳に強い作用を及ぼす薬を飲まされたとか。あるいは催眠術のような方法を使われたのかも知れない。
 もしそうだとしたら、その犯人を絶対許さない。必ずこの手で捕まえてやる。

「ねえ満智、些細なことでも構わないから、何か思い当たる節はない?」
「……そうですね。一つだけ」
 満智は言うと、制服のポケットから緑色のヘアピンを取り出した。小粒の天然石がはめ込んであり、学内の購買で売ってるものではない。
「これ、本の整理をしていたら、ベッドの下で見つけました。こういう形のピンは、わたしは使いません。ルームメイトの仁科さんに聞いても、彼女も知らないと」
「証拠品ってわけね」
 亜子はヘアピンを手に取って観察する。安物ではないので、落し物の告知をすれば持ち主が現れるかも知れない。
「仁科さんが言うには、それ、棚橋さんのじゃないかって」
「棚橋さん? 転入生の?」
「はい。どうやらわたし、昨日の夜、彼女を部屋に招いたみたいなんです」
「そうなの。またなのね」
 重要な証言だった。
 沙和が病院に運ばれた前日にも、棚橋ゆらと二人きりで会っているところを目撃されている。これは果たして偶然だろうか? いや、思えばこの学園の異変は、彼女が転入して来た頃から始まっているのだ。それまでは退屈なぐらい平和な学園だった。
「別に彼女を疑ってるわけじゃないんですよ」
 と、満智は困惑気味に言う。
「分かってる。このヘアピンは、わたしに預けといてくれない? 彼女から色々と聞いてみるからさ」
「はい、お願いします」
「満智はゆっくり体を休めたほうがいいわ。学園祭の書類は、わたしが片付けておく。ああっと、その前にお昼食べようか。おばさんのサンドイッチ、無駄にしちゃ悪いから」
「そうですね。わたし、お茶入れて来ます」
 席を立った満智の足取りはしっかりしていた。幾分、元気を取り戻したようで、亜子はほっとする。

 ──満智はさ、わたしの大切な後輩なんだよ。
 頭が良くて、性格が穏やかで、他人のために頑張れる子なんだ。
 もし誰かが彼女に危害を加えたのだとしたら、自分は決して許さない。地獄の果てまで追いかけていって、糾弾し、罪を償わせてやる。
 亜子の感情はいつになく高ぶっていた。右手がやけに熱を持っている。
 ──いけない、興奮し過ぎね。わたしまで、具合が悪くなりそう。
 と、次の瞬間、彼女は信じられない光景を目の当たりにした。
 机の上に乗せた右手の指先。その隣にあった一枚の書類が、ジリジリと音を立てて黒い焦げ目を作ったのである。当然、近くに火の元はない。彼女の右手が、恐ろしく熱いこと以外は。
「な、何これ?」
 亜子は慌てて腰を上げ、室内をぐるりと見渡した。そして会長席に飾られた花瓶を見つけると、生花を引き抜いて、中にあった水を自分の右手にぶちまけた。
 シュッという音がして、水は一瞬にして蒸発した。


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