17

 共同浴場から戻ってみると、部屋にゆらの姿は無かった。
 今朝方までは雲一つない青空だったのに、午後になって天候は急に崩れ、雨風が激しく窓を叩いている。
 数年前に新築された校舎と違って、この岩水寮はもとからあった建物をリフォームして使っている。築30年以上経つ木造建てで、ときおり隙間風が迷い込んだり、雨漏りが見つかって大騒ぎになることもある。
 それでも、コンクリートで固められた建物よりは、落ち着くから好きだ。
 3年も暮らしていると、古い木材の放つかび臭く湿った空気も気にならなくなった。
「明日は晴れるかな」
 多希は窓際に寄って、カーテンを半分開く。
 実はゆらとの約束で、週末の休みに麓の町まで買い物に出かける予定なのだ。彼女の生活用品を揃えるのが目的だが、荷物持ちに他の生徒ではなく自分を指名してくれたことがたまらなく嬉しかった。
 ──初デートだしな。何を着て行こうかな。
 期待に胸を弾ませつつ、何気なくゆらの机に目をやると、教科書の山の陰に写真立てが伏せてあるのを見つけた。
 ──誰の写真だろ?
 いけないと思ったが、好奇心を抑えられず、彼女は写真立てを手に取ってみた。

 カメラのレンズに向かって、肩を並べて四人の少女が写っていた。真ん中左であどけない笑顔を浮かべているのが、ゆら。その右隣の二人は、ゆらより幾分か背が低い。髪型は違うがどことなく面影が似ていて、彼女の姉妹を連想させた。
 だが、気になるのは彼女の左隣の少女だった。ゆらより頭一つ分背が高い。その少女の顔だけが、なぜか黒いマジックで塗り潰されているのである。
 これは、ゆらがやったのだろうか。だとしたら、何のために? お揃いの白いワンピースを着ていかにも仲睦まじそうな姉妹なのに、一人だけこの扱いはどういうこと?
 ──そういえばわたし、彼女の家庭の事情とか何も知らないな。
 多希は物憂げに溜め息をつく。
 いや、自分も彼女に親兄弟のことは話してないから、そこはお互い様だ。ただ、彼女が悪魔退治をするに至った経緯については、自分も無関係とは言えないので知っておきたいと思った。
「たった一人で学園に乗り込んでくるなんて、よっぽどだもんな」

 彼女の背後でその時、ドアが開いた。
 多希は慌てて写真立てを戻すと、愛想笑いをしながら振り返った。
「ゆら、あのさ」
「先輩そこどいて下さい。邪魔です」
 粗大ゴミのような扱いで、ゆらは彼女を脇に押し退けた。
 そして椅子に掛かったバッグの中から、茶色表紙の魔術書を引っ張り出したのである。
「ゆら、ちょっと待ちなよ」
 踵を返そうとするゆらの手を強く掴む。
 この子はまたしても、やる気なんだ。今度は誰だろう? もし自分のよく知る人物だとしたら、黙って見過ごしてはおけない。ゆらの表情からいつもの冷静さが窺えないし、衝動的に行動してもし失敗したらどうするのか。
「先輩、放して下さい。時間がないんです」
「落ち着きなよ。何があったの?」
「2年の八島先輩を自室で眠らせてあります。目を覚ます前に、ケリをつけないと」
 ゆらは手を振り解こうとする。
「八島さんて、生徒会書記の? 彼女も悪魔憑きなの?」
「間違いありません。悪魔の名前も特定しました。だから邪魔しないで下さい」
「だから落ち着きなって。この短期間で立て続けに記憶喪失になる生徒が出たら、さすがに学校側だって黙っちゃいないよ? そのへんの対策とか考えてあるの?」
「見つからなければ平気です」
「だからさ、彼女のルームメイトはどうなのさ? 八島さんとゆらが部屋で会ってること知ってるんじゃないの? 鴻野さんの時は、翌日にはバレて一部で噂になってたよ?」
「そうなったら仕方ありません。八島さんを力ずくで気絶させちゃいましたし、ここで逃がしたら2度とチャンスは巡って来ないですから」
 ゆらの決意は変わらないようだった。
「君って子は……」
 多希はあきれた声を出す。
「分かった。それなら、わたしも一緒に行って手伝う。誰も部屋に入らないように見張っておくから、ちゃっちゃと済ませちゃいな」
 今の時間帯なら、寮生の大半は大浴場に行っているはずだ。深夜寝静まってから動くよりは、ごたごたしている今のうちに済ませたほうが、かえって安全かも知れない。
「いいんですか? 見つかったら、先輩も怪しまれますよ?」
「ゆらが見つかっても同じことだよ。監督不行き届きで責められるのは、わたしだから」
 今更そんなこと気にしないと、彼女はゆらの背中を押した。
「ありがとうございます。それじゃ、急ぎましょう」
 ゆらが先陣を切って、部屋を出てゆく。
 ──きっと明日の買い物のことなんて、きれいさっぱり忘れてるんだろうな。
 自分にとっては、今年初めての重大イベントという位置付けなのに。何も、その前日に騒ぎを起こさなくてもいいじゃない。明日のデートが流れたら、わたし落ち込んで立ち直れないかも知れないよ。
「この、いけず」
「はい? 何か言いました?」
「ううん、ただの独り言」
 多希は彼女の後に従いながら、心の中で悪態をついた。

 幸いにして、誰にも見つからなかった。
 満智のルームメイトが戻ってきた気配もない。
 東側のベッドには、三つ編みの女子生徒が気を失って体を横たえている。無防備な寝顔を晒していて、これが悪魔に憑かれた少女だとはとても思えない。牙が伸びるとか、コウモリの翼が生えるとか、外見的な特徴が表れれば分かり易いのに、これじゃあまるで何の罪もない無垢な少女を力ずくで襲ってるみたいで、何とも心が痛い。
 だいたい、本当に悪魔は存在するのだろうか。
 多希がそれを信じるに至った根拠は、ゆらに見せられた自分のインナースペースである。
 けれど、あの世界こそ彼女が作った幻覚とは言えないだろうか。
 被験者に悪魔の姿を見せ、洗脳し、実はその裏で別の魔術儀式を行っている。彼女自身が悪魔であり、そうやって人間の魂を集めているのだとしたら。
 ──考え過ぎか。
 疑い出したらキリがない。
 これから彼女が実際に魔術を使うのだから、それをつぶさに観察していれば分かることではないか。

「ゆら、わたしはどうしたらいい?」
「えっと、部屋に鍵は掛かってますよね。なら別に、何もしなくていいです。もし誰かが部屋に入って来ようとしたら、うまく言いくるめて追い払って下さい。それと、魔術の最中は、絶対にわたしや満智さんに触れてはダメです。わたし達が泣こうが喚こうが、悲鳴を上げようが、外部から決して関与しないで下さい。逆に危険ですから」
 真剣な表情で、ゆらは訴えた。
「了解。約束する」
「それじゃ、行ってきます」
 満智とのコネクトを確認するように、ゆらはいったん彼女の額に触れた。
 次に銀色の指輪がはまった左手で、魔術書をなぞってゆく。いつもの呪文が、滔々と小さな唇から紡がれる。
 次の瞬間、彼女は事切れたようにベッドサイドに崩れ落ちた。

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