魔術人形コーネリア 1
あれから4ヵ月の時が過ぎた。
窓の外に見える景色はそれほど変わらないが、季節は幾分、冬に向かいつつあるらしい。朝晩の冷え込みを多少、肌で感じるようになった。
とはいえ、もとの世界に比べたら、緩やかな気候変動である。
大地から湧き出す無限のオーアは、この世界の気候にも大きく影響しているのを感じる。
日中は、太陽から降り注ぐ光の熱を大地が余分に溜めこむのを抑制し、夜には、大地が蓄えた太陽の熱を余分に大気中に放射するのを抑制する。
まるで生物が暮らしやすい環境を、大地そのものが提供してくれているような。
この世界全体に、何者かの意図が働いているような。
そんな気さえする。
(ねえ、ミーナ)
(何か用?)
(本ばかり読んで、飽きませんか?)
(全然。面白いわ)
ミーナはロッキングチェアに深く腰掛け、黄色い表紙の本に目を落としていた。
まだ、すらすらとは読めない。
けれど、一読すれば大雑把な内容が把握できるくらいには、彼女のフェスベラルダ語は上達していた。
フェスベラルダというのは、国の名前ではない。おそらくこの大陸全土を表す名称であろう。アフリカとか、ユーラシアと同じ意味だ。
そしてフェスベラルダには、統一された言語が存在していた。
正式名称は分からないので、ミーナはその言葉をフェスベラルダ語と呼ぶことにしたのである。
(定時連絡の時間ですよ)
(必要なし)
(もう1ヵ月もさぼってますけど)
(特に話すことないから)
実を言うと、キャンプで渡された携帯端末の使い方が、未だによく分からない。
電源は切ったままで、多分、バッテリーが尽きているに違いない。
それでも、この屋敷を訪れた当初は、この携帯端末が役に立った。無線でキャンプと交信し、しつこく何度も何度も、一部の機能の使い方だけを教わった。
まず、新たな言語をカメラで撮影する。
それをAIの自動解析にかけると、ある程度のパターンに分類してくれる。例えば、これは名詞、これは動詞、これは形容詞、これは前置詞など。
百パーセント正確ではないが、きちんと形式化された言語であれば、そこまで大きな齟齬は生じない。言語というのは、しょせんはコミュニケーションの道具でしかなく、そうであるならば、時間と共により使い易い方向へと洗練されてゆくものだから。
しかし分かったのはそこまで。
そこから先に進むには、もう一人の協力者の手助けが不可欠だった。
「コーネリア、ちょっと来て」
ミーナは卓上にあった呼び鈴を鳴らした。
すると、屋敷の奥から、ギシギシと床を踏み鳴らす音が近付いてきた。
書斎のドアが開き、コーネリアが姿を現す。
それは人間ではなかった。
より正確には、生物でもなかった。
それは、一体の魔術人形だったのである。
「この単語、意味を教えて」
「はい。小舟、です」
「次は、この文章の意味を教えて」
「はい。男は魚を湖に逃がした、です」
二人のやり取りは、フェスベラルダ語で行われていた。
この魔術人形には言葉が通じる。簡単な命令であれば、という条件付きだが。
おそらくはこの屋敷の主のために作成されたハウスキーパーであろう。主が姿を消してからも、彼女はこの屋敷を一人で維持し続けていたのだ。
今はなぜか、ミーナのことを主と認識している。
外見は不格好だった。脚の長さが腕の長さの半分しかなく、しかも太い。そのおかげで歩行バランスは安定している。
首が無く、頭は半球形で、胴体から直接生えていた。もちろん目鼻は付いていない。
その代わりにキャンプの近くでミーナが戦ったフード男に似た感覚器官のようなものが、頭の左右に三つずつ、この人形にも付いていた。
手の指は五本。物を掴むこともできる。口は付いていないが、喋ることもできる。
元の素材は粘土だろうか。魔術の力によって土は乾くことなく、ある程度は丈夫で、柔らかな動きを可能にしている。
カラーリングは全身が白一色。今はだいぶ汚れや傷が目立つ。
そして元の主が着せたのだろう、薄茶色のワンピースを身に着けていた。
「この文章の意味を教えて」
「はい。昔はもっと漁が盛んだった、です」
「ありがとう。以上よ」
ミーナが告げると、コーネリアは再びドアを閉め、台所のほうへと戻ってゆく。
「これが網、網。これが漁、ということは、こっちは漁師ね」
ミーナは彼女が発した言葉の発音を、何度か繰り返して頭に覚え込ませた。
この4ヵ月間。
彼女は他に何もせず、ただひたすらにフェスベラルダ語の習得に勤しんだ。
誰かが代わりにやってくれるわけでもない。
何をするにしたって、彼女自身が言葉を喋れなければ始まらない。
腰を据えて言葉を学べる場所が、ミーナには必要だった。
その意味では、コーネリアとの出会いはこの上ない幸運だったと言える。
彼女がいなければ、ミーナは現地人を捕獲し、脅すなり監禁するなりして、フェスベラルダ語の発音を覚えなければならなかったところだ。
森の中に捨てられた一軒家。
だいぶ長いこと放置されていたに違いない。
古びた屋敷全体が、鬱蒼たる蔦に覆われていた。もはや家の壁面が見えない程にびっしりと。
屋根の一部は崩れ落ち、玄関の戸は立て付けが悪く完全には閉まらない。
雨風を凌げる部屋は、この書斎と台所、一階の客室くらいなものだ。
人の出入りした痕跡もあった。
貴重品などはあらかた盗まれてしまったのだろう。
実際、書斎の本棚に残っていたのも、価値の無さそうな安っぽい装丁の書物ばかりである。本棚は半分以上、隙間が空いていた。
ではなぜ、あの魔術人形だけは無事な姿でいられたのか。喋る魔術人形なんて、売れば相当な価値があると思うのだけれど。
あるいは護身の魔術が掛かっているのかも知れない。あるいはこの家を離れると魔術の効力が切れるのかも知れない。
持ち運ぶには重量があるし、抵抗されても面倒そうだ。
かといって、壊してしまったら価値そのものが無くなってしまう。
「泥棒も、扱いに困ったのね」
ということで、ミーナは納得しておいた。
言語の習得は慣れていた。
ミーナは英語、フランス語、ドイツ語、スペイン語、ラテン語、日本語、広東語の七ヵ国語を自在に操ることができた。
彼女くらい長く生きていれば、ごく自然のことである。
ミーナはこれまで百ヵ国以上の国で生活した経験がある。世界中のあらゆる人種と交流し、あらゆる言語を学ぶ機会があった。
言語を習得するのは、特別難しいことではない。
言葉など、早ければ、生まれて一年の赤ちゃんだって喋り始めるのだ。
重要なのは、相手の言いたいことを理解すること。
そして自分の言いたいことを伝えること。
単なるコミュニケーションの道具だと割り切ることだ。
だから、まず最初にヒアリングを徹底的に行う。ヒアリングをもとに、自分の口で繰り返しその言葉を発音してみる。
それがある程度できるようになれば、あとは暗記作業だ。
短い文章を丸暗記してゆく。
文法など、いちいち考えない。ただ暗記してゆく。
短文を一万覚えれば、その言語の持っている基本的な構造が分かってくる。
二万覚えれば、自分が日常会話をごく自然に行っていることに気が付くだろう。
三万覚えれば、もうネイティブとの会話に困ることはない。
あとは専門的な用語や言い回しを、少しずつ肉付けしてゆくだけ。
そうやって、ミーナはこれまでも言語を習得してきた。
彼女なりのコツである。
「絵本と、児童書は、もう卒業ね。本当は百科事典があれば良かったのだけれど、この屋敷の主は技術書を集めるのが趣味だったみたい」
ミーナは本棚の書物を一冊ずつ分類してゆく。
子供向けの絵本。昔話。
算数や歴史の基礎的な学習書。
大陸各地の観光スポットや、祭り、風習を記した本。
歴史に名を残した人物の自伝小説。
フェスベラルダ語の一般的な語学辞典。
「子供向けの本が多いのは、この家に子供がいたってことね」
それ以外の技術専門書も多い。
特に工作関係。工具の制作から、工具の扱い方。木材を使った物作り、粘土を使った物作り。人形作りのハウツー本。
著名な人形作家が書き残したと思われるデザイン書。
そういえば、この母屋の隣に小さな作業小屋があったのを思い出す。
工具類はあらかた持ち去られていたが、作りかけの人形パーツがたくさん放置されていた。木組みの素体。粘土で作った腕や足。
壁にはコーネリアそっくりな人形の設計図も張ってあった。
この屋敷の持ち主は、腕の良い人形職人だったのだろう。
コーネリアも、同じ人物の製作に違いない。
「紙がボロボロなのはいらないか……ん?」
ミーアは本棚の端にあった、一冊の青い本を手に取った。
パラパラとめくってみる。
それは下手くそな字で書かれた、日記だった。
裏表紙にはメサフ・ナホジクという名前が記してあった。
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