8

 双魚学園の校舎は、大きく3つに分かれている。
 中央の職員棟、そこから鳥の翼のように東棟と西棟が左右に伸びている。東棟は主に一般教室、西棟は専門教室と区別されていて、中央の渡り廊下で繋がっている。張り巡らされた水路や左右2つある池の位置まで、校門側から見て完璧なシンメトリー構造になっているのが特徴だ。
 グラウンドと体育館は、校舎の裏側の少し離れた場所にあり、生徒たちが暮らす岩水寮はそこから更に10分ほど歩いた森のなかにある。周囲には鬱蒼と繁った森林以外に何もない、まさに陸の孤島といった僻地なのだった。

 ゆらがその日の放課後訪れた美術室は、西棟一階奥の角部屋だった。
「ここって……」
 長い廊下に足を踏み入れた瞬間、彼女は全身の肌が粟立つのを感じた。
 何だろう、この違和感は。渡り廊下から校舎に入って数歩と行かないうちに、気温が2,3度下がった感じだ。
 風が吹き抜けているわけではない。むしろ空気は滞っているのに、この寒さはどうしたことだろう。
 廊下を進むうち、違和感はいっそう濃くなっていった。
 辺りがやけに静かなのだ。
 校舎の外にいた時には耳に入っていた吹奏楽部の演奏が、ここではまったく聞こえない。生徒たちのさんざめく声、喧しいぐらい響いていた蝉の鳴き声も聞こえない。
 ゆらは立ち止まり、窓の外に目をやった。
 水路の脇に腰を下ろして、素足を水に浸していた女子生徒の姿が見えない。そこに広がるのは無人の中庭だけ。しかし、放課後の中庭から生徒の姿が消えるなんてことがあり得るだろうか。
「結界が張られている? でも、魔術儀式の痕跡は見られない。だとしたら、これは幻覚か」
 ゆらは確信をもった。この廊下を進もうとする人間に、何者かが幻覚を見せているのである。
「どうやら、当たりが引けたみたい。美術部部長、鴻野沙和さん」
 ゆらは神経を研ぎ澄ませつつ、廊下の突き当たりまで進んだ。美術室とプレートがかかった教室の扉から、そっと室内を覗き込んだ。

「Alas……」
 何てことだろうか。
 20名から成る女子生徒たちが、扇状にイーゼルを配置して、一心不乱にキャンバスに木炭を走らせているのである。黙々と、一言も喋らず、ただ腕だけを機械のように動かし続けるさまは、あまりに不気味であった。
 しかも彼女たちがモチーフにしているのは、一人の女子生徒。なんと、一糸まとわぬ全裸で教室の中央に立ち、堂々とポーズを取っている。
 Eカップはあるだろう形のよい胸、くびれたウェスト、ツンと張り出したヒップ。溜め息が出るほど見事なプロポーションだ。長い両手足を奔放に投げ出し、悦に入った表情で微笑んでいる。
 彼女が鴻野沙和に違いない。
 羞恥心をかなぐり捨てた常識外れの行動は、悪魔憑きによく見られる兆候である。
 ──おっきいな。あれだけ胸が大きければ、誇示したい気持ちも分からないではないけれど。
 ゆらは微妙にムカつきを覚える。
 するとその時、モデル台に立っていた沙和がこちらを振り向いた。同時に、女子生徒たちのデッサンをする手がピタリと止まる。
「ねえ、そこのあなた、部活動見学かしら? そんなところからでは見難いでしょう。中に入ってらっしゃいな」
 艶かしい声が、ゆらの脳髄を刺激する。
「はい、ありがとうございます」
 ゆらの唇が自らの意思とは関係なくそう答えた。まるで糸に引かれるように入口の扉を開けると、教室に足を踏み入れる。
 ──わたし、操られてる?
 おそらくは、ここに集まった生徒たちが掛けられているのと同じ悪魔の能力だ。特別な訓練を受けていない一般人では、まず抵抗するのは不可能だろう。
 ゆらは目を瞑り、精神を一点に集中させた。自分の体にまとわりつく操り糸を弾き飛ばすイメージを形成する。
 ふっと鋭く息を吐くと、手足の自由が回復した。彼女は右の手のひらを閉じたり開いたりして、神経が指先まで届いていることを確認した。

「あなた、凄いわ。今、何をなさったの?」
 沙和が感心して言った。
「別に何も」
「だって、わたくしの力を打ち消すなんて、普通の方にはできないことよ? もしかしてあなたもわたくしと同類?」
「あの、言ってる意味が分かりませんが」
 ゆらはとぼけつつ、正面から彼女と対峙した。
 これだけの能力を使えるからには、彼女に憑依した悪魔はかなりのレベルまで力を蓄えている。そしてその影響は、すでにこうして周囲の生徒に及び始めている。
 今のうちに阻止しないと、この学園は悪魔の食い物にされてしまう。
 実力行使に出るべきだと、ゆらは覚悟を決めた。
「嘘はいけないわ。わたくし、ぼんやりとだけど人の心が読めますの。あなた、彼について詳しいようですわね。どうかしら? わたくしに色々と教えて下さらない? 正直なところ、わたくしもこの力が如何なるものなのか、きちんと把握できていませんのよ」
 沙和は包み隠さずそう言った。
 実際、その通りなのだろう。悪魔が簡単に宿主に対して正体を晒すことはない。宿主は自らの精神や肉体に表れる幾つかの兆候から、その異常を察知するのみである。
「その前に、一つ質問してもいいですか?」
「何かしら?」
「なぜ、こんな悪ふざけをするんですか?」
 と、ゆらは教室を眺め回した。

「何をおっしゃるのかしら。これは真面目な部活動ですわ」
 沙和は心外そうに告げる。
「美術部の生徒が、裸婦のデッサンをするのがおかしいかしら? わたくしは美術部部長として、彼女たちの願いを適えてさし上げただけですわ。彼女たちが羨望の眼差しでわたくしの容姿を眺め回すものだから、この際、思う存分堪能させてあげましょうと、恥ずかしさを偲んでこうしてモデルになってさし上げてるのですわ」
「ものは言い様ですね」
 どう見ても、露出狂の自己満足にしか思えないのだが。
「そうですわ、いい考えがあります。本日は特別に、あなたがモデルをやってみませんこと? わたくしもモデルばかりではなく、たまにはデッサンをやりたいと思ってましたの」
 再び彼女の力が飛んできた。
 ゆらの手が自分の意思を離れて、胸元のリボンをスルリと解く。
 ゆらは奥歯を噛み締めて、気合もろとも見えない力を打ち払った。
「お見事ですわ。やはり、あなたには効かないのですね。ちょっぴり残念」
「彼女たちの拘束を解いてやって下さい。話があるのであれば、二人きりの時にしませんか?」
 ゆらが提案した。
「そうですわね。さすがに飽きてきたところですし、それで構いませんわ。ただし、条件が一つありますの。今夜一晩、わたくしにお付き合い下さらない?」
「それは、どういう意味で言ってるのですか?」
「分かってるくせに……」
 沙和は淫靡に上唇をペロリと舐める。
 なるほど、実に悪魔的で、分かり易い。彼女が欲しているのは肉体的な快楽。欲望に忠実なだけなのだ。この生徒たちは彼女の欲求を満たすために集められたペットといったところだろうか。
「気乗りはしませんが、いいですよ。その代わり、彼女たちを解放して下さい」
 ゆらが答えると、沙和は歓喜の表情で、彼女に抱きついてくる。
「ああ、嬉しいわ。あなたみたいな強い意志を持った人を屈服させることができると思うと、背筋がゾクゾクしますわ」
「先輩、焦らないで下さい。みっともないですよ。時間はたっぷりあるじゃないですか」
「あら、嫌ですわ。わたくしとしたことが、つい嬉しさのあまり、ハメを外してしまいました。そういえば、まだあなたのお名前を窺ってませんでしたわね」
「棚橋ゆらです」
「ゆらさん、とお呼びしますわね。わたくしは鴻野沙和。……では、ゆらさん。今からわたくしの部屋にいらっしゃいな。二人きりで、親睦を深め合いましょう」
 彼女はそう言うと、制服に着替えるために美術準備室に入っていった。
 ──幻覚と人を操る力。彼女の中にいる悪魔は、多分……。
 地獄の大公爵ダンタリオンに違いないと、ゆらは当たりをつけた。


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