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『拝啓、お母様。
 暑くなってきましたが、お体のほうは大丈夫ですか? お母様は夏が苦手なので、少し心配です。あまり無理はせず、休めるときにはきちんと体を休めて下さい。
 わたしのほうはと言えば、体調面では特に問題なくやってます。寮の食事が美味しいので、英国にいた頃よりも体重が1キロ増えてしまいました。
 ところで、もうご存知かも知れませんが、双魚学園が休校になるのを受けて、9月から鹿児島県にある白羊学園に転校することになりました。学園が休校になる原因を作ったのはわたしなので、他の生徒の皆さんには申し訳ない気持ちです。
 それと、残念ながら姉さんに関する手掛かりは、この学校では得られませんでした。例のパーティーに出席した人と話をしたのですが、どうやらあの日の記憶だけが意図的に消されているようなのです。こちらが動くことを、あらかじめ予測していたのでしょうか。常に用心を怠らないあたり、姉さんを褒めるべきなのでしょう。
 生徒に憑依した悪魔は、5体退治しました。残る1体については、本人が自覚して今の状態を望んでいるので、このまま放置しようと思います。わたしの目的はあくまで姉さんの手から魔術書を取り返すことなので、構いませんよね? もし何かの障害になるようであれば、彼女のプロフィールを同封しておくので、そちらで処理して下さい。

 話は変わりますが、今回、学園に潜入してみて、少し考えさせられることがありました。
 ここに来る前は、悪魔は害悪だから、発見したら直ちに排除するのが当然だと思っていました。けれど、実際に悪魔憑きの生徒と会って話をしてみて、その考えは浅薄なのではないかと思うようになりました。
 学園寮でわたしと同室だった、ある先輩がいます。彼女はわたしから説明を受けるまで、悪魔について何も知りませんでした。ナギナタ部の部長として最後のインターハイを目指して毎日遅くまで練習していて、とても充実した学園生活を送っていたのです。転入生のわたしにも親切で、色々とアドバイスをしてくれました。彼女のおかげで、わたしはすんなりと新しい環境に溶け込めたのです。
 結果的に、その先輩をわたしは手に掛けました。彼女は記憶に障害が残り、インターハイに出場することも、大学受験に向けて勉強することもできなくなりました。今は病院でリハビリに専念しています。

 お母様、わたしの選択は正しかったのでしょうか。最終的には先輩が望んだこととはいえ、他人の人生をこうもあっさりと狂わせてよいものなのか、あれからずっと考えています。先輩にお別れを告げた夜は、悲しくて寂しくて、一人ぼっちになった部屋で一晩中泣いてしまいました。この罪悪感は一生かかっても拭えそうにありません。
 お母様、とても苦しいです。
 あなたは間違ってないと言って欲しい。
 次の学校でも同じようなことがあったら、わたしの心は折れてしまうかも知れません。

 ごめんなさい。少し感傷的になってしまいました。
 これじゃ、お母様も心配ですよね。でも、大丈夫。目的を忘れたわけではありませんから。人の痛みを感じられるうちは、まだ正常です。本当に怖いのは、姉さんのように他人の不幸を何とも思わなくなってしまうことです。
 だから、わたしは姉さんの暴走を食い止めます。引き続き、白羊学園で情報の収集に当たろうと思います。

 長くなりましたが、ゆまと、さらにもよろしく伝えて下さい。あんまり甘いものを食べ過ぎないように。それと魔術の修練を怠らないようにと。あの子たちは、わたしよりずっと優秀ですから、何も心配いらないと思いますけど。
 それでは、くれぐれもお体をお大事にして下さい。
 また、向こうに着いたらお手紙します。
                                                                 敬具』

 事務所の入口にある郵便ポストに封筒を投かんすると、ゆらはキャスターつきのスーツケースを転がして、校門へと向かった。
 朝の5時。そういえば、彼女がこの学校に到着したのも、ちょうど今時分だった。
 あの朝と同じく、あたり一面にはミルクを溶かしたような濃霧が立ち込めている。視界は限りなくゼロに等しく、肘を伸ばすと手首から先が白いもやの中に消えてしまう。
 その濃い霧によって、10歩と歩かぬうちにゆらの前髪から水滴が垂れ始めた。
 念の為、撥水効果があるジャケットを着ていて正解だったと思う。
「何もわざわざ、朝出て行かなくてもいいのに」
 見送りに出てくれた寮長は、呆れ口調で言ったものだった。
「こんな時間じゃ電車の始発も出てないし、駅で相当な時間を潰すことになるわよ?」
 それでも構わないと、ゆらは答えた。
 ハイヤーの運転手には悪いけれど、出立は明け方と決めていたのだ。
 ここのところ毎日のように、校門前では、2学期から離れ離れになる生徒たちが記念写真を撮ったり、涙で目を赤く腫らせて抱擁しあったりと、あたかも卒業式のごとき光景が繰り広げられている。
 ああいった輪に加わるのが、ゆらは苦手であった。この学校に通ったのもわずか1ヶ月弱の短期間だったし、知り合いの数だって少ない。大仰に別れを惜しむ彼女たちとは、テンションが異なっている。
 それゆえ、みんなが寝静まっているこの時間帯に発とうと思ったのである。
 ──まあ、昼間出たところで、わたしを見送りに来てくれる人はいないだろうけど。
 ゆらは自嘲気味に笑って、前方の霧に目を凝らす。

 薄ぼんやりとした門柱のシルエットがだんだんと形を成してくる。
 その向こうには、車のヘッドライトが一筋の光線を作っていた。
 その時、校門の脇に誰かが立っている気配を感じた。だが、それは単なる思い過ごしだったようだ。門柱の脇を通過する際、左右を見回してみたが、そこには誰の姿もなかった。
 ──馬鹿ね、何を期待してるんだろう。
 彼女は自分自身を嗜めて、黒塗りのハイヤーに歩み寄った。助手席側のドアを軽くノックする。
 すると車内で休憩を取っていた運転手が、ドアを開けて顔を出した。その初老のドライバーは、転入初日に彼女を駅まで迎えに来てくれた運転手と同じ人だった。
「お早いですね」
 丁寧な物腰で、運転手が言った。
「すいません。こんな時間に、無理を言ってしまって」
 ゆらが恐縮して頭を垂れた。
「問題ないですよ。飛行機などの時間の関係で、たまに朝早く発たれる方もいらっしゃいますから」
「そうですか」
「お荷物はどうしましょう? トランクに入れたほうがよろしいですか?」
「はい、お願いします」
 運転手は車のトランクを開けると、こちら側に回り込んでゆらのスーツケースを運んでいった。ゆらは肩から提げたショルダーバッグを開けると、ハンカチを取り出して体についた水滴を拭い始める。
 バタン、とトランクが閉まる音がした。
「もう、出発してよろしいですか?」
 運転手が問いかける。
「ええ……」
 そう呟いて、ゆらはもう一度、双魚学園の校舎を振り返った。

 霧に閉ざされた左右対称の建物は、見様によっては開いたままの絵本のようだった。
 あの絵本のなかでは、今もなお幾多の生徒たちによって、幾多の物語が綴られている。楽しく賑やかな学園コメディ。汗と涙の友情物語。あるいは、甘くて切ない女同士の禁断の恋物語。
 その絵本を、外側から眺めることしかできない自分のポジションを、ゆらは歯がゆく思った。あそこにいる彼女たちが、心底羨ましい。肩に背負った荷物を下ろして、何も考えずあの中に飛び込んでいけたら、どんなにか楽しいだろうに。
「どうかなされましたか?」
 ハイヤーの運転手が声をかける。
「いえ、何でもありません」
 ゆらは子供じみた願望を断ち切るように頭を振ると、車の後部座席のドアを開けた。
 その時、またもや人の気配を感じた。
 門柱に掲げられた『双魚学園』の表札。その手前に、多希が立っているような気がしたのである。
 しかしゆらは、振り返らず車に乗り込んだ。
 ──ここでの仕事は、もう終わったんだもの。
 そして物事の終わりは、必ず何かの始まりでもある。これから行く先でも、また新たな人との出会いと別れが、彼女を待ち構えていることだろう。
「さよなら、多希先輩」
 徐行運転で動き出したハイヤーのなかで、ゆらはそっと言葉を噛みしめた。

                               おわり

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