31

 この感じ。似ている。
 何も見えず、何も聞こえず、五感が鈍磨してゆく感じ。
 手足の感覚もなくなって、周りの空気に自分の体が溶けてゆく感じ。
 あらゆるものの境界が消え失せて、何もかもが渾然一体とする。自分が世界であり、世界が自分である。わたしが、限りなく広くなってゆく。
 そう。
 これはあの時と一緒だ。ゆらが見せてくれた、わたしの深層意識。その空間では、わたしは世界そのものだった。
「これが明鏡止水の境地ってやつなのかな」
 心がすごく穏やかで落ち着いている。逼迫した状況だというのに、不思議と恐怖は感じない。

『聞こえるか、小娘よ』
 澄み切った水面に、ぽちゃりと小波が立った。
「誰?」
『覚えているはずだ。私の姿を』
「もしかして、あの時の悪魔?」
 腕に白い蛇を巻いた男のイメージが浮かび上がった。確か、アンドロマリウスという名前だっただろうか。
『ようやく私の声が届くようになったようだな。ずっと呼び掛けていたのだが』
 アンドロマリウスが静かに語る。
「何の用? わたしの体を乗っ取りに来たの?」
『今のところ、そのつもりはない。意外に思うかも知れないが、私はこの場所が案外と気に入っているのだ。この場所にいる限り、下らない人間どもの召還に応じなくて済む。取るに足らない人間の雑事に手を煩わせることほど、私にとって無意味な行為はないのだ』
「人の体を間借りしといて、よく言うよ。こっちは、あんたが居たところで得することは何もないってのに」
 多希は溜まっていた鬱憤を吐き出した。
『だから、手を貸してやろうかと考えたのだ』
「手を貸すって?」
『先程からしきりに助けを呼んでいたろう。あまりに煩くて、おちおち休んでもいられなかったぞ』
 否定したところで、この悪魔には自分の心の声が筒抜けなのだった。走りながら躍起になって「助けて」と繰り返していた声を聞かれていたと思うと、多希は恥ずかしくて赤面してしまう。
『何を恥じる必要がある。実に人間らしい情動であったぞ』
 アンドロマリウスが告げた。
「もう、いちいち人の思考を覗くな! わたしにだってプライバシーってものがあるんだ!」
『強がるな、少女よ。それより、どうするのだ? 見たところ、窮地に陥っているようだが、私の助けは必要か?』
「ピンチだったのは、さっきまでだよ。今はとりあえず平気」
『果たしてそうかな? 敵はすぐ近くに居るぞ』

 視界の片隅にまばゆい光が点り、多希は無意識のうちに跳ね起きていた。
 誰かが柔剣道場の照明を点けたと思ったのである。しかし、天井が暗いままなのを見て、彼女はほっと胸を撫で下ろした。
「じゃあ、この光は?」
 取り戻した五感を駆使して、周囲の状況を探る。
 すると、柔剣道場の入口の向こうに、彼女は奇妙なものを目にした。
「鹿がいる」
 呟いて、自分の耳を疑った。鹿だって? そんなばかな。だけどあの立派な角は、確かに雄鹿だ。
『奴が悪魔フルフルだ。外見は黄金の毛をした牡鹿で、あの2本の角から雷を起こし、時には嵐を呼ぶ』
 再びアンドロマリウスの声がした。
「これは、あなたが見せてくれてるわけ?」
『そういうことになるな。私にはフルフルのような直接的な力は無いが、隠れたものを見通したり、心の動きを読む力がある』
 分厚い鉄の扉越しでも、悪魔の挙動が丸見えだった。
 奈帆はどうやら、この柔剣道場に自分が潜んでいることに勘付いたようだ。侵入経路を探しているのか、ドアの周囲を徘徊している。
「中に入れなければ、問題ないよ」
『そうとも言えないぞ』
「どういうこと?」
『足下をよく見てみろ』
 アンドロマリウスの指摘を受けて、多希は畳張りの床に目を凝らした。
 入口付近の畳だけが、キラキラと光沢を帯びている。彼女はその場所に近付き、畳の上に薄い水の膜ができているのを知った。

「何これ、濡れてる」
 水は畳の表面を滑り、どんどん大きくなってゆく。入口の扉にできた隙間から、ホースで水が流し込まれているのだった。
「か、感電させるつもり?」
『水に触れない場所に移動しろ』
「そんなこと言ったって……」
 周囲を見回しても、上れそうな物は何一つ置いてない。柔道部と剣道部、ナギナタ部が併用している柔剣道場には、余計な荷物を置かない決まりになっているのだ。
 多希は入口から反対側の壁際まで、急いで後退した。
 しかし水の広がる速度は恐ろしく早い。畳の表面は固くコーティングされているので、ほとんど水が染み込むことなく滑るように侵食してくる。
 そして窓の外からは、断続的にバチバチという音が響いていた。
「水って、そんなに電気通さないんじゃなかったっけ?」
『純水ならば正解だ。しかし不純物を含んだ水は、普通に電気を通すぞ』
「へえ、悪魔って意外と博識なんだ」
 などと感心している場合じゃなかった。
 水の膜は表面積にしてすでに柔剣道場の半分以上を覆っている。コンクリートで造られた密閉された建物だけに、水はけが悪く、溜まる一方である。
「このままじゃ、マズいよ。何かいい手はない?」
 多希は壁際をカニ歩きで横に動きながら問いかけた。

『フルフルを倒すのが、最良の手段だ』
 と、アンドロマリウスは答える。
「そんなの無理だよ。近付くことさえできないのに」
『フルフルの角をよく見よ。力を行使する際、あの角が赤く光るであろう。うまく間合いを計れば、間隙を突けるはずだ』
「簡単に言ってくれるし」
 一歩間違えれば、まともに電気を浴びてしまう危険な賭けである。
 フルフルの角が赤くなるのは、およそ5秒間隔だった。悪魔といえど、恒久的にエネルギーを放出し続けるのは困難らしい。
 入口の鍵を開けるのに5秒。ドアを開けて飛び掛るのに5秒。
「どうしたって、1回は電流を凌がなくちゃならないか」
 多希は綿密に検討を重ねる。
『うむ、それしかないだろうな。考え方は悪くないぞ』
「どうもありがとう。あの鹿が立ってるところに、宿主もいるんだよね?」
『その通りだ』
「分かった。じゃあ、悪運を祈ってて」
 悪魔に祈るべき対象がいるわけないかと、馬鹿な突っ込みを入れながら、多希は着ていたジャケットを脱いだ。
 次にバッグに入っていた化粧ポーチを取り出し、それをジャケットでくるむ。これで簡易足場の出来上がりだ。
 彼女はバッグを小脇に抱え、空いた手にジャケットを持ち、気合を入れた。ヒールの高いサンダルは、走るのに邪魔なのであえて履かずにおく。

「行くよ!」
 呼吸を止め、タイミングを計った。
 1秒後、フルフルの角が赤い光を帯びた。
 バチバチッという音とほぼ同時に、多希は水溜りを駆け抜ける。素足が水に浸り、飛沫が高く跳ね上がる。
 ──1、2、3。
 ジャケットの足場を、入口のドア手前に放り投げた。それが着水する位置を確かめて、彼女は足場に飛び乗った。
 ──4、5。
 フルフルの角が、再度赤く光る。足元の水溜りに電流が放出されたはずだが、痺れはやって来なかった。
 ──よしっ!
 多希は内側から、柔剣道場の鍵を開いた。ドアを力任せに押し開ける。
 入口の石段の下、奈帆が両手を胸の前でクロスさせた格好で立っていた。こちらが動けなくなるのを待って、じっくり仕留めるつもりでいたのだろう。よもや反撃を受けるとは予想しておらず、突然現れた多希を目にして、彼女の口元がぽかんとなった。
「だあああああっ!」
 ショルダーバッグのベルト部分を握って、多希は石段の上からジャンプした。
 やおら空中で一回転。
 遠心力を伴った重たいバッグを、そのまま彼女の頭めがけて振り下ろした。
 ガツンとした手応え。
 同時に、彼女の視界はブラックアウトした。
 意識が瞬時にして吹っ飛び、世界は音を失った。
 多希が叩き付けたバッグと、フルフルが放った電撃は、ほぼ相打ちだったのである。両者は弾かれたように、逆方向へと数メートル吹き飛ばされた。地面に叩きつけられ、二人ともピクリとも動かなくなる。
 空気が焼け焦げる臭いが、周囲に立ち込めた。

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