5

 多希はその光景を、上空から見下ろしていた。
 幽体離脱したように、宙に浮いている。いや、そうじゃない。この景色のなかに、自分は溶け込んでいるのだ。
 彼女はこの世界そのものなのだった。
 その証拠に、意識するだけで瞬時にその空間へと移動できる。景色を右から見ようと思えば右へ、下から見ようと思えば下へ。丸い透明な球体を、外側から覗き込むのに似ていた。

「わたし、どうしたんだろ?」
 多希は誰にともなく問いかけた。が、返って来るのは沈黙だけ。
 彼女が見下ろしている景色は、どこか洋風な室内であった。緑と青の細かな模様のじゅうたんに、暖かそうな炎をたたえた暖炉。暖炉の前には安楽椅子が二脚置いてある。
「これ、どこかで見覚えがある」
 どこだったろう。
 そうだ、もう取り壊されてしまったけど、祖父の家のリビングだ。子供の頃、毎年のように彼女は祖父の屋敷で冬を過ごしていた。あの暖炉にも、思い出がある。飼っていた猫のルルを火箸でイタズラして、おばあちゃんにこっぴどく叱られたっけ。
 でも、何でわたしはここにいるんだろう。祖父が亡くなって、あの家は9年前に解体されたはずなのに。
「おーい、誰かいませんか? これは夢?」
 多希は視点を変えながら、呼びかけを繰り返した。
『そうか、ようやく見付けたか』
 と、低い男の声が耳をかすめる。
「誰? どこにいるの?」
『目の前にいる。落ち着いてよく見ろ』
「目の前ったって……」
 視点がぐるぐる移動できるのだ。どこを指すのかがよく分からない。
 彼女はもう一度、俯瞰から部屋全体を眺め下ろした。色々試してみたが、やっぱりこの位置が最も安定するようだ。
 そして彼女の視線は、部屋の片隅にじっと立ち尽くす一人の男をとらえた。そのたたずまいから、はじめ祖父かと思ったのだが、どうやら違ったようだ。
 白髪の混じったザンバラ髪に、長い顎ひげを蓄えている。薄汚れた黒い布を身にまとい、麻で編んだサンダル履きである。はだけた胸元からは、肋骨が異様に浮き出ているのが分かる。手足もガリガリで骨ばっていて、山奥で断食修行をしている仙人のような印象を受けた。
 加えてその男は、左腕に一匹の白蛇を巻いていた。体長40センチほどで、真紅の瞳をもった蛇であった。

「あんた、誰?」
「それは、アンドロマリウス。先輩に憑依した悪魔です」
 答えたのは、ゆらだった。
 こちらもいつの間に現れたのだろう。暖炉の前に、やはり薄布一枚をまとった際どい格好で立っていた。手には分厚い書物を抱えている。凛と響く声には、ただならぬ緊迫感が窺えた。
「あ、悪魔? このおじいさんが?」
「そうです。ソロモン72柱の一つ、地獄の伯爵アンドロマリウスです」
「分からないな。どうしてそんな悪魔がここにいるんだ? だってこの場所は、わたしの祖父の家で、とっくに壊されて、今はもう無いはずなんだけど……」
 喋りながら、多希はますます冷静さを失ってゆく。
「だいたい、わたし何で空中に浮いてるわけ? これは夢? 夢なのに、どうして普通に会話ができるんだ? ねえ、教えてよ。何がなんだか全然分からないよ!」
『落ち着くのだ、少女よ』
「そうです、落ち着きましょう。先輩が壊れると、この世界そのものが崩壊してしまいます。お願いですから、わたしを巻き添えにしないで下さい」
 と、ゆらが淡々と諌める。
 彼女の言葉通り、多希が興奮すると、それに同調するように眼下の景色が振動した。ゆらはその振動を直接感じているらしく、安楽椅子に掴まって転倒するのを避けていた。
「じゃあ、説明してよ。一体全体、何がどうなってるわけ?」
「端的に言えば、ここは先輩の心の中なのです。わたしはインナースペースと呼んでいます」
「インナースペース?」
「深層意識と言い換えても構いません。そのへんは曖昧ですから。ようするに、先輩の脳内イメージによってできた世界です。過去の記憶や想像上の産物によって、この世界は構成されています」
 ゆらは油断なく視線を配りながら、説明した。
 アンドロマリウスは黙したまま、話に耳を傾けている。

「わたしの深層意識って……。そこにどうして棚橋さんが存在できるわけ? この会話もわたしの一人芝居ってこと?」
「違いますよ。魔術によって、わたしのイメージを強制的に送り込んでいるのです。分かり易いように、一つ実験してみましょうか。先輩はいわばこの世界の創造主ですから、この空間にある物質全体に干渉できます。例えば、この安楽椅子を宙に浮かせるビジョンを思い浮かべてみて下さい」
「どうすればいいって?」
 言いながら、多希はそのイメージを頭で描いていた。
 するとどうだろう。ゆらの前にある安楽椅子が重力を無視してフワフワと浮かび上がったではないか。それだけではない。彼女が思い描いただけで、椅子は自在に宙を飛びまわった。
 まるでドールハウスを使ったおままごと遊びをしている感じだ。
「ならば次に、わたしに対して同じことをしてみて下さい」
「いいの?」
 椅子を床に下ろし、今度はゆらに神経を集中させる。
 けれど、彼女を操ることはできなかった。宙に浮かせようとしても、彼女はピクリとも動かない。
 多希がどういうことかと理由を訊ねる。
「つまり、今ここにいるわたしは先輩の創造物ではないということです。それゆえ、直接的な干渉はできません。そこにいる悪魔も同じです」
「外部からの異物なんだね」
 多希は感覚として、それを理解した。そもそも彼女の記憶では、あのようなおかしな格好をした老人に心当たりがない。絵本やテレビで見たイメージが残っていた可能性はあるが、だとしても祖父の家との結び付きが説明できない。
「あのパーティーの日、とある人物の手によって先輩は心の中に悪魔を憑依させられました。そして事実を隠蔽するために、その人物は出席者全員の記憶を操作したのです」

「誰が、何のためにそんなことを?」
「それを現在、調べているところです。悪魔に憑かれた人間は、じょじょに心を侵食されていきます。放っておけばいずれ、悪魔に心を乗っ取られて人格が破綻するでしょう。欲望に支配され、理性が利かなくなり、悪魔に命じられるままに動く操り人形と成り果ててしまいます」
「嫌だよ、そんなの。どうにかならないの?」
 多希は無駄だと思いつつも、悪魔に向かって消えろと念じてみた。が、アンドロマリウスの様子にさしたる変化は起こらなかった。
 ゆらが一歩前に出て言った。
「そのために、わたしが来たんじゃないですか。アンドロマリウスよ、この世界は、汝のいるべき場所ではない。さあ、ソロモンの契約において、我が命に従いなさい」
『我を送り返すと言うか?』
 左手に蛇を巻いた悪魔が、静かに口を開く。
「無論よ」
『少女は知っているのか? 我と鎖を断ち切る痛みを?』
「黙りなさい。悪魔を宿し続けるほうが、彼女にとってより大きな痛みなのよ」
 ゆらの表情に微かに焦りの色が浮かんだ。
「痛みって?」
「先輩、悪魔の戯言に耳を貸してはダメです。悪魔はああやって人心を惑わすのです」
『我の目を誤魔化そうとしても無駄だ。少女よ、こやつはお前に重大な隠し事をしているぞ』
 アンドロマリウスが左手をすっと持ち上げた。その手首に巻きついた白蛇の眼が、一瞬まばゆく輝いた。
「あうっ!」
 ゆらが苦悶の呻き声を発して、両手で側頭部を押さえた。まるで長い髪の隙間から漏れ落ちる何かを必死に押し止めようとするかのように。
 その刹那、多希の意識のなかに彼女の思考が奔流のように流れ込む。悪魔を除去する作業が、宿主にどれほどの重大な後遺症を与えるか。
 それは多希にとって、あまりに大きな代償だった。
「せ、先輩! 騙されてはいけません!」
「何だよ、それ。嫌だよ、そんなの……」
 ぐにゃりと世界が歪んだ。ゆらの足下が溶けたバターのごとく崩れてゆく。
「先輩、堪えてっ!」
「嫌だっ! わたし、まだ終われないよっ!」
 多希の心は、ゆらを拒絶した。ゆらは崩れた床に、ずぶりと腰のあたりまで沈んでしまう。
「Damn it!」
 ゆらは英語で罵ると、手にした書物を開いて指輪を走らせた。


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