無限のオーア 3

 木々の梢の隙間から、逆光の月が顔を覗かせていた。
 衛星の背後にもう一つ光源となる衛星が存在していて、月の輪郭だけが明るい、いわゆる新月に近い見え方をしている。
 倒れたコンテナから四つん這いになって異世界への第一歩を踏み出したミーナは、不愉快そうに伸びをして、上空を見上げた。
「もっとマシな輸送方法は無かったの?」
「生もの取扱い注意のステッカーを張るべきでしたね」
 後から這い出したネウロイが、センスのない冗談を口にする。
 向こうとこちらの世界では、重力の向きが90度異なっていたのだ。ハーネスで体を固定していなかったら、転んで大怪我をしていたところだ。
 横向きになったコンテナが、ワイヤーによって、再びポータルに引き戻されていく。
 こちらの世界では、ポータルは洞窟ではなく、自然の森林のなかに無造作に口を開けていた。
 人の手が加わった様子は見当たらない。
 地面に直径5メートルほどの黒い縦穴。その穴に向かって大気が流れ込んで、ゆっくりと渦を作っている。
 大気の成分には、ポータルと接触すると発光する物質があるようだ。
 縦穴の淵がクリスマスのイルミネーションのように、チカチカと渦を作りながら黄金色に瞬いている。
「バスタブの排水溝みたいですね」
 ネウロイがポータルを観察してそう言った。
 言い得て妙だと思った。
「ここが、異世界ね」
 ミーナは新鮮な空気を、肺にいっぱい吸い込んだ。
 息苦しくなることはない。
 大気の成分は、地球とほぼ変わりないのだろう。
「気のせいかも知れませんが、何だかムラムラしませんか?」
 ネウロイが言った。
「月のせいじゃないの? ほら、地球より一つ多いもの」
「こちらの月は、ずっとあの状態で、満ち欠けはしないそうですよ。いや、だからといって、僕は節操なく変身などしませんけどね。安心して下さい」
「どうかしら」
 実はこの男、獣人の血筋を引いているのである。
 しかも一族の中でもかなり希少な、ワージャガーだ。
 変身後の戦闘能力だけで言うなら、ワーウルフやワーベアを軽く凌駕する。一族最強とも噂されている。
「お二人とも、キャンプはこちらです」
 暗がりの向こうから、懐中電灯の明かりが近付いてきた。
「デルタです。キャンプまで案内します」
 私設軍隊デヴィリヨンのメンバーだった。彼らは本名を明かさず、NATO軍のフォネティックコードをそのまま使っている。
 いちいち名前を覚えなくて済むので、ミーナにとっても楽でよかった。
「行きましょうか」
「ええ」
 キャンプ地は、ここから200メートルほど勾配を下った、水場のほとりに設置されるらしい。森林を縫うように一本の渓流が流れていて、見渡しがよく警備しやすい。
 現在は周辺の樹木を伐採し、仮設キャンプを設営しただけだが、いずれ前線基地を建設し、二つの世界を通信ケーブルで結んで連絡が可能な状態にする予定だという。

「他のみんなは、無事に到着したのかい?」
 歩きながら、ネウロイがデルタに問いかけた。
「それが、アーミー・ワンとビット・ゴンザレスが、キャンプを勝手に離脱して、どこかに行ってしまいました」
「おやおや」
「それ誰?」
「アーミー・ワンは有名な殺し屋、ビット・ゴンザレスは元ウェルター級の世界チャンピオン。ほら、目出し帽の上からハンチングを被ってた男と、両腕が機械仕掛けの義手だった男ですよ」
「ああ、あいつらね」
 何となくビジュアルは覚えている。
「いるんだよねえ、どこにでも。集団行動が出来ない馬鹿が」
「定時連絡さえ怠らなければ、単独行動は別に構わないのです」
 デルタは困惑した口ぶりだった。
「とはいえ、見知らぬ土地の、夜の森ですからね」
 彼の言いたいことは理解できた。あてもなく歩けば、十中八九、道に迷うこと間違いない。ここが異世界である事実を抜きにしても、常識的に、キャンプから徐々に行動範囲を広げていくべきなのだ。
「迷子になって、そのへんで泣いてるんじゃない?」
 ミーナはふと思い立って、脳の前頭葉あたりに意識を集中させた。
 彼女の瞳が深い青色から、鮮やかな赤色へと変化する。
 この状態だと、彼女の知覚は極限まで鋭くなり、生物の体内を駆け巡るオーアの流れもはっきりと見ることができる。加えて、運動能力も人間の限界をはるかに超越する。
 とはいえ、自らのオーアを激しく消耗するので、長時間は保てないのだが。
「何よ、これ?」
 世界の景色が一変し、彼女は思わず足を止めた。
 自分が見ているものが、にわかには信じられない。
 ここは一体全体、どういった世界なのだろうか。
 そこらじゅうに、オーアが溢れている。色とりどりのカラフルな大地が広がっている。

(何だか、頭がおかしくなりそう)
(きれいです。わたし、ここが好き)
(うん。ちょっと怖いけど)

 とても冷静ではいられなかった。心臓がバクバクする。
「どうかしましたか?」
 ミーナの異変に気が付いたネウロイが、振り返って尋ねた。
「ねえ。お前、さっきムラムラするって言ったわね」
「はい、今も多少、血が騒ぐというか」
「その理由が分かった」
 ミーナは左手をかざし、大地から湧き上がるオーアを吸い取ってみた。
 まさに、生物から吸収するオーアと、何も変わらない。
 体内が活力に満たされてゆく。
「オーアが……エネルギーが、大地から無限に湧き出している。とめどなく、尽きることなく、まるでスポンジから水が染み出すように」
「どういうことです?」
「どうもこうも、言った通りよ。たぶんこの世界にいる限り、わたしは無敵になる」
 自らの口をついて出た一言に、ミーナはブルッと身震いした。

 波一つ立っていない、澄み渡った湖面を想像してほしい。
 1匹の魚が、水面上に飛び跳ねる。
 ポチャリと、湖の表面には波紋が広がってゆく。
 すると今度は、別の魚が別の場所で、湖面を跳ねる。
 再び波紋が広がり、やがて消えてゆく。
 そのような光景が、絶え間なく繰り返されてゆく。

 大地から湧き出すオーアを視覚的に描写すると、そんな感じである。
 実際には魚ではなく、オーアが間欠泉のように吹き上がる。その後にエネルギーの波紋が広がってゆく。
 驚いたのは、オーアにカラフルな色が付いていることだ。
 向こうの世界にいた時、オーアは白い光の流れとして、ミーナの瞳には見えていた。
 だが、こちらのオーアはどうだろう。
 赤、青、黄、緑、黒、白と、ざっと確認しただけでも六色に分別できる。
 これは何を意味しているのだろうか。まさかオーアにも幾つかの種類が存在するのだろうか。
「僕は実際に、そのオーアとやらが見えるわけではありませんがね」
 と、ネウロイは言った。
「もとの世界でも、ここと似た場所に行ったことがありますよ。それはいわゆる、本物のパワースポットです。その場所にいると、僕の身体はなぜかウズウズするんです」
「パワースポットか」
「ええ。事の真偽は分かりませんがね、とある呪術師は、パワースポットの力を借りて様々な奇跡を起こしたと言われています。何もない場所で火を起こしたり、空中を浮遊してみせたり」
「いいわね、夢がある」
 ミーナは上気した頬で言った。まだ、心臓の鼓動が早い。
「だとしたら、ここは世界全体がパワースポットということになるもの」
「お二人とも、キャンプに到着しましたよ。便宜上、ここをファーストキャンプと呼称します」
 デルタが懐中電灯の光を前方に向ける。
 少し前から、森の木々の合間に、焚火の明かりが見え隠れしていた。
 山間の沢のほとり。
 川幅5メートルほどの清流が、岩場の隙間を縫うように、斜面を真っ直ぐ下っている。
 ファーストキャンプは、その沢を見下ろせる一角に設営されていた。
 周辺の木々は伐採され、裁断され、迷彩色のターフの下に山積みになっている。
 軍用のパップテントは全部で6張。
 その他に、簡易組み立て式のコンテナが2つ。コンテナは武器弾薬と、食料を保管するためのものらしい。
 近くの樹木に梯子を立て、粗末な見張り台が作ってあった。
 キャンプの中央は炊事場である。水を溜めたポリタンクと、石組みのかまど。その周囲を丸太を横にしただけの、簡易ベンチが取り囲んでいる。
 森の木々以外に、身を隠せる場所はどこにもなかった。
 無防備といえば無防備だが、見晴らしがいいといえば見晴らしがいい。
「なかなか素敵なホテルですね」
 ネウロイが軽口を叩いた。
「野宿よりはマシって程度ね」
 ミーナにはどうでもいいことだった。どの道ここに留まるのは、今夜一晩だけだろうから。
 ミーナはすでに、単独でキャンプを離れる決意を固めていた。

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