無限のオーア 1

 目覚めの気分は、いつだって最悪だ。どうしてこのまま、わたしを永遠に眠らせてくれないのだろうか。
 うっすらと目を開けると、無機質な白い天井と壁があった。
 天井には埋め込み式の照明と、空調ダクト、そして監視カメラが見える。
 それ以外にこの部屋にあるものといえば、彼女が横になっているダブルサイズのベッドだけ。
 トイレも洗面台もない。刑務所の独房よりもさっぱりとしている。
「おはよう」
 ミーナは彼女に向けて呟いてみた。返事はなかった。
 まだ眠っているらしい。
 ゆっくりと体を起こす。肉体がまったく眠りから覚めていない。頭の奥に白いもやが掛かっているようだ。
「おはようございます。ご気分はいかがですか?」
 くぐもった機械音声が聞こえた。壁の向こう側にスピーカーがあるらしい。
 機械音声は英語を喋っている。
「最悪よ。ところで、今はいつ?」
「西暦2020年、9月20日になります」
「2020年……10年ぶりか……」
 記憶をたどることができて、ほっとする。しかし彼女が眠りについたのは、こんな殺風景な部屋ではなかったはずだ。
「ここはどこ?」
「場所ということならば、アラビア半島のアラビア海岸、アブダビ市から東に4キロほどいったところにある地下施設ということになります」
「また、辺鄙なところに運んでくれたわね」
「申し訳ありません。……ミュー・ナヴァルニーナ様」
「ミーナでいい。長い名前は嫌い」
 確か、フランス語の「ミュー」、ロシア語の「ナヴァルーニエ」、ラテン語の「ルーナ」あたりから来ている名前だったはずだ。
 彼女が眠っている間に付いた名前で、愛着はない。
「この服は?」
「日本製の、ゴシックロリータですね。お部屋のクローゼットに入れてあったものを、一緒に運ばせました」
「そう……」
 自分の好みではなかった。多分、三条松家のあの女の趣味だろう。
 袖の部分やスカートに、仰々しいフリルが付いたミニのワンピースで、左胸の部分にだけ真っ赤なバラが咲いている。脚には膝上まである黒のハイソックス。それをガーターベルトで腰に止めている。
 ベッドの側らには、使い込んだ黒のステッキが立て掛けてあった。
 第二次大戦当時、アメリカのケーバー社に勤めていた職人が、彼女のためにあつらえた特注品である。
 ステッキを回転させると、先端から刃物が飛び出す仕組みになっている。
「お腹空いた。まずは、10年ぶりの食事かしらね」
 ミーナはステッキを手にして、ベッドから立ち上がった。

 足元がふらついている。雲の上を歩いているような感覚だ。
 10年ぶりとはいえ、筋肉の量が減って歩けないということはない。彼女の不死身の肉体は、そんなにヤワではない。
 ずっと仮死状態にあって、単に体を動かすエネルギーが足りないのだ。
「隣室にお食事を用意させました」
 と、機械音声が告げた。
 監視カメラとは逆側の壁がスライドし、通れるようになった。
 続く部屋も、やはり同じような白い壁に囲まれている。一つ違うのは、ベッドが設置されておらず、代わりに手錠を掛けられた若い男女が床に転がっていた。
 ミーナは一度カメラを振り返って尋ねた。
「殺してもいいの?」
「どうぞご自由に。この者たちは七件の強盗殺人を犯した罪人です。生きていても、社会の役には立ちますまい」
「相変わらず、世は殺伐としているのね」
 彼らの外見は、十代の若者にしか見えなかったが。
 男女は意識が朦朧としている。
 変に暴れられても面倒なので、薬で処置されたのだろう。ミーナとしては、薬漬けの獲物はあまり好みではないのだが、贅沢も言っていられまい。
「なら、遠慮なくいただく」
 そう言うと、ミーナの両眼は真っ赤な光を帯びる。それと同時に、彼女が自分のなかで目覚めた感覚があった。

(おはよう)
(おはようございます)
(お腹空いたでしょ?)
(はい、少しだけ)

 彼女の頭の中で、二人は普段通りに会話をかわした。どうやら何も心配はないようだ。彼女はいつもの彼女であった。
 ミーナの真っ赤な瞳は、すべての生物が持っている活力の流れを、まるで光の帯のように観察することができる。
 その生命エネルギーを、ミーナは「オーア」と呼んだ。
 このオーアこそが、彼女の主食なのである。

(入れ替わる?)
(いえ、このままでいいです)
(分かった。わたしに任せるのね)

 やおら、男の顔面を鷲掴みにする。そのまま人差し指と中指の鋭い爪を、男の眼球に突き刺した。
 顔面からは血しぶきが噴出する。

(血が温かい)
(懐かしい匂いです)
(これではちょっと足りないわね。この二人、オーアが薄いわ)
(もっと苦しめて死を意識させれば、生きている実感もわくのでは?)

 さらに力を加える。男は死に物狂いで暴れ始めた。
 体から血液が失われると、それを補おうとして心臓が激しく脈打ち、さらに大量の血液を全身に送り出そうとする。オーアの流れも速くなる。
 危機的な状況でも生命活動を維持しようとする人間の生体反応である。
 ミーナは右手の先端から、男のオーアの輝きを根こそぎ吸い取っていった。
 エナジードレインと呼ばれる、彼女固有の捕食方法だ。
 男の声は小さくなり、しばらくすると完全に動かなくなった。

(まだ、足りない)
(わたし、もう少し休みます)
(そうしてくれる?)

「い、いや。助けて」
 男が捕食される一部始終を目にしていた若い女は、震えながら壁際に後退した。
 ミーナは手にした杖を無造作に突き出した。
 先端から飛び出した刃物が、女の首筋に滑り込んだ。バターの塊にナイフを入れるような手ごたえの無さだった。
 女は狂ったように金切り声を発し、のたうち回った。飛散した血液によって、白かった部屋の壁が真っ赤に染まってゆく。
 ミーナは女の髪を掴んで、床に引きずり倒した。
 そのまま動かなくなるまで、オーアを吸収する。
 全身が活力に満たされるほどではなかったが、頭に掛かっていたもやが取り払われ、手足の感覚も確かなものに変わった。
 ミーナの全身は、二人の返り血で真っ赤に染まっていた。その血液すらも、オーアと一緒に吸い取ってゆく。

「吸血鬼が人間を捕食する様というのを、初めて見物させてもらいました。首筋から血液を吸うのかと思っていましたが、そうではないのですね」
 機械音声が言った。
「不快ね。見世物ではないわよ」
 応じるミーナの瞳の色は、もとの深い青色に戻っていた。
「失礼しました。後片付けはこちらでしますので、先にお進みください」
 再び壁がスライドし、今度は少し長い通路が現れる。
「それと、わたしを吸血鬼と呼ぶな。汚らわしい」
 ミーナは吐き捨てた。肩先まで伸ばした乳白色の髪を左手でかき上げる。
 身長は160センチちょうど。
 一点の曇りもない、透き通った赤子のような肌質。それもそのはずである。彼女の不死の肉体は、常に再生を繰り返しているのだ。
 細身の体格だが、その内側には驚くべき身体能力を隠している。体長2メートルを超えるグリズリーであっても、単純な力比べで組み伏せることができる。瞬発力、跳躍力も同様である。彼女の能力を測るには、人間とはまた別の物差しを用意する必要がある。
「他にお食事はいかがなさいますか?」
「今はいらない」
「かしこまりました。では、さっそく本題にまいりましょう。こちらもあまり時間の猶予がございません」
 そうだろうとも。
 わざわざ、わたしを中東の辺鄙な地下施設まで呼び寄せたのだ。よほどの差し迫った事態が起こったに相違ない。
「お前は素性を明かさないの?」
 通路を進みながら、ミーナは尋ねた。
「申し訳ございません。しかし、御三家の了解は得ていますので」
「そう。なら、仕方ないわね」
 東西冷戦後、実質的に彼女の身柄を保護しているのは、英国のアーノルド家、日本の三条松家、米国のバリモア家のいわゆる御三家である。
 彼らの了承がなければ、彼女の身柄は移送できないことになっている。
「わたし、まだるっこしいのは嫌い。短く説明して」
 通路の先の扉がスライドした。
 そこは壁一面がプロジェクタースクリーンになった、会議室であった。
 スクリーンの横には、寸胴型のロボットが待機していた。
 現在スクリーンには、何やら光る噴水のようなものが映写されている。
 場所は天然の洞窟に見える。地の底から光る物質が湧き出しており、まるで地底湖のような溜まりを作っている。
 中東というと真っ先に原油が思い浮かぶが、まったく違う物質のようだ。
「約4ヶ月前のことです」
 寸胴型のロボットが、説明を始めた。
「結論から申しますと、我々は異世界への扉を発見しました」

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