24
炎の嵐が吹き荒れていた。
赤々と燃える世界。足下を、上空を、無数の炎のつららが飛び交っている。
これが彼女の怒り強さだろうか。じっと立っているだけで、肌がジリジリと焦げてしまいそうである。空間全体が熱を帯びており、体感気温はゆうに50℃はあるのではなかろうか。
──この場所に長く留まるのは危ない。
ゆらは歯を食いしばって意識を集中する。
身体に受けたダメージの影響は、こちら側にも響いていた。痛みと苦しさで、状態を維持するのさえ困難極まりない。
一刻も早く、悪魔を見つけなければならない。ソロモン72柱の35番、地獄の大公爵マルコシアス。悪魔のなかでも強大な力を備えた戦士だ。
「もう嫌なのっ!」
突然、どこからともなく、亜子の声が響く。
シャワーのような水音と、小さな爆発音。そしてシュッという蒸気が発生する音が立て続けに耳を震わせる。遥か遠くで、白い湯気が立ち上るのが分かった。
「あそこね」
ゆらは進行方向に意識を傾ける。
インナースペースでは自らの足で歩かずとも、こうすることで移動が可能なのだ。
宙を舞う炎のつららを避けながら、白い湯気の中に突入すると、頭上から落ちてきたシャワーの水が彼女を濡らした。
この場所だけ、他よりだいぶ温度が下がっている。
乱舞する炎がシャワーにあてられ、次々と消滅してゆくのが見えた。
──これ、彼女がやっているの?
疑問に答えるように、亜子の声がこだまする。
「こんなつもりじゃなかった! 彼女を傷付けるつもりなんてなかったの!」
『何を今更。断罪を下すと言ったのは、お前ではないか。許せなかったのであろう、あの女が?』
「彼女が反省して、沙和と満智が元の状態に回復すればいいと思っただけ!」
『ぬるいな。あの女は魔女だ。忌むべき存在だ。手心を加えてどうする』
炎と水のぶつかり合いは、激しさを増してゆく。
視界は限りなくゼロに近かったが、ゆらは悪魔の声がする方角を特定した。
気配を悟られぬよう近付いてゆくと、やがて白い湯気の向こうに巨大な影が現れた。
悪魔の外観は、銀色の狼だった。
つややかな毛並みが、炎の光を浴びて赤い光沢を放っている。
背中からは一対の翼。この世の生物のものではない。架空の生物、グリフォンの翼だ。そして尻尾は、鋭い牙をもつ鈍色の大蛇の形をしていた。
これがマルコシアス。戦士としての風格と力強さを兼ね備えた、恐ろしい悪魔である。
──凄い威圧感ね。あんなのと正面から鉢合わせなくてよかった。
狂気の宿った双眸で睨まれたら、足が竦んで一歩も動けなくなりそうだ。
『奴はもう虫の息だぞ。早くトドメを刺せ』
マルコシアスが咆哮を上げた。
炎のつららが、頭上を覆いつくさんばかりに数を増す。
「嫌よっ! こんな危ない力、わたし使いたくない!」
亜子は必死に抗っていた。ほんのわずかでも隙を見せたら、悪魔の迫力に呑み込まれてしまうことを、彼女は分かっている。
『ならば我と代わるがいい。臆病風に吹かれた者は、戦場では役に立たぬ』
「これはわたしの体よっ!」
『同時に、我の器でもある』
マルコシアスは亜子の自我を乗っ取るつもりのようだ。
そうはさせるものか。あの強大な力が現実世界で暴れまわったら、生徒たちにどれほどの被害が出るか想像もつかない。
白い湯気に身を隠し、ゆらは確実に間合いを詰めてゆく。
幸いにも、両者とも言い争いに夢中で、こちらの動きに気付いていない。
「出てって! 今すぐ、わたしの中から出て行って!」
亜子が遮二無二、絶叫した。
「その願い、しかと受け取りました!」
ゆらが魔術書を開いて、ダッシュした。
すると、マルコシアスの尻尾がいち早く反応した。大蛇が鎌首をもたげ、威嚇するようにシャアと吠える。
『何者かっ?』
「マルコシアス、あなたの負けよ!」
後方の死角から、狼の後ろ足に接近を試みる。
『小賢しいわ! 人間風情がっ!』
炎のつららが集まり、ゆらに狙いを定めた。一点に集約し螺旋状に渦を巻いた炎の柱が、巨大なハンマーのように打ち下ろされた。
ゴオオッと、耳元を轟音が駆け抜ける。熱い。焼ける。まぶたを閉じても、目の前が真っ赤に染まっている。
ゆらは思わず手で顔を覆い、黒い消し炭と化した自分自身を想像した。
しかし、その時はいつまで経ってもやって来なかった。薄目を開けてあたりを窺うと、何と彼女の周囲が水の幕で覆われ、炎と熱をシャットアウトしていたのである。
「ありがとうございます、先輩」
そして、ごめんなさい。
ゆらはソロモンの小さな鍵を、マルコシアスの銀色の体毛に押し付けた。
「悪魔よっ!」
ページに刻まれたシジルが眩い輝きを放つ。
『グオオオオオオッ!』
マルコシアスが苦悶の咆哮を発した。四肢で宙を掻き、翼を羽ばたかせ、力ずくで魔術の効果範囲から逃れようとする。
だが、それも所詮は無駄な悪あがきだった。膨張する光彩が、マルコシアスの全身を静かに消し去ってゆく。それに伴い、空間を飛び交っていた炎のつららも、一つまた一つと萎んで消失した。
熱風の嵐がおさまると、後には淡い色彩の空間だけが残った。
──運がよかった……。
今になって、ゆらの背筋を寒気が襲った。五体満足でいることが信じられない気持ちだった。正面からやり合っていたら、マルコシアスの圧倒的なパワーの前では成す術もなかっただろう。
「棚橋さん、あいつは、いなくなったの?」
亜子が問いかけた。
「先輩が力を貸してくれたおかげで、何とか送り返せました」
ゆらは虚空に向かって語りかける。
「そうなんだ、よかった。これでわたしも、お役御免なわけね」
「………」
「言わなくても分かるわ。あなたがこの場所に来た時、あなたの想いが流れ込んで来たの。なぜあなたが沙和や満智を壊してしまったのか、壊さざるを得なかったのか、よく理解できた。そしてわたしが、この後どうなるかも」
「あの、先輩、負けないで下さい。わたし、こんな事ぐらいしか言えませんが、先輩ならば立ち直れると信じています」
「ありがとう。もちろん、負けないわ。すぐに復活してみせる」
「はい、その意気です」
ゆらは努めて明るい笑みを作った。
その薄紅色の頬を濡らすのは、果たして瞳から溢れた涙滴だったろうか、それとも先程まで降り注いでいたシャワーの残滓だったろうか。
「それでは、わたしは行きます」
「またね」
亜子の声が遠ざかると共に、ゆらの意識は掠れていった。
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