13

「とりあえず、熱は下がったみたいね」
 保険医の細貝伸子が、体温計を見ながら告げた。
 2時間前に計ったときには37度5分あった体温が、ベッドでしばらく横になったおかげか36度7分まで下がっていた。
「風邪ではないみたい。きっと慣れない環境に、体が戸惑ってるのよ。また微熱が出るようだったら、いつでもいらっしゃい」
「ありがとうございます」
 ゆらは礼を言って、保健室を後にした。
 自分はそんなにデリケートな人間じゃない。この体調不良の原因は、おそらく立て続けに行った魔術の反動である。
 ──さすがに2日連続は堪えたみたい。
 この学園にいる限り、悪魔だって逃げようがないのだから、これからは無理をせず腰を据えて取り組むべきだろう。

 1年B組の教室に入ってゆくと、何やら騒ぎが持ち上がっていた。前の時間が体育だったので、みんな着替えの最中だったが、教室のあちこちから短い悲鳴のようなものが聞こえてくる。
「無い! わたしの制汗スプレー!」
「あたしのリップクリームも無いわ!」
「ねえ、他に何か盗られた人いる? よく調べてみなさいよ」
 どうやら彼女たちの所持品が紛失したのが、この喧騒の原因らしかった。被害の声を上げたのは六人で、いずれもバッグに入れておいた化粧品類を盗られていた。
 ──わたしは大丈夫よね?
 ゆらはどこか他人事に思いながら、廊下側の自分の席に腰を下ろした。
 机の脇に下げてあった学校指定バッグを手に取ってみる。
 重かった。
 ズシリとした手応え。無論、こんなに沢山の物を詰め込んだ覚えはない。
 バッグを膝に乗せて中身を覗いてみると、そこには見覚えのない化粧品のスプレーや小瓶が乱雑に放り込まれていたのだった。
 ──やってくれる。
 あまりに古典的な手口に、ゆらは大きく溜息をつく。
 すると、まるで彼女が席につくのを待っていたかのように、数名の女子生徒がこちらにやって来た。グループの先頭に立つのは、結城香恵。多希親衛隊の急先鋒だ。
「ねえ、棚橋さん。あなた確か、体育の授業休んだんだっけ? みんなの持ち物が無くなったんだけど、何か知ってる?」
 左右のお下げを揺らしながら、薄ら笑いを浮かべる。
「それって、これのこと?」
 ゆらは済ました顔で、バッグの荷物を机にぶちまけた。ここで動揺したら負けだ。毅然とした態度を保たなければならない。
「あー、これわたしの!」
 取り巻きの一人が、フェイスローションの瓶を手にして大声を張り上げた。
 教室内にいた生徒たちの視線が、いっせいにこちらに集中した。
「見つかったの?」
 物を盗まれた数名が、慌てて寄ってくる。彼女たちは机に投げ出された荷物を確認すると、これわたしのだと言って次々とスプレーや化粧品を手に取った。

「ちょっと棚橋さん、これ一体どういうこと? 何で無くなった物が、あなたのバッグから出て来るの?」
「わたしも是非知りたいわ。説明してくれるわよね?」
 今や、ゆらの周囲は事の成り行きを見守る生徒たちで溢れかえっていた。
 果たして、このうち何人がこの悪だくみを仕組んだのだろうか。まさかクラス全員が敵とは思いたくはないけれど。
「わたしは知らない」
 ゆらは淡々と否定した。
「とぼける気?」
「事実だから。誰かがわたしを犯人に仕立てるために、盗った物をバッグに入れたんでしょ」
「なにそれ、苦しい言い訳。こうして証拠は挙がってるのにさ」
「わたしが物を盗むところ、誰か見てたの?」
「見てるわけないじゃない。わたしたち、前の時間は体育だったんだからさあ」
「わたしは2時限目と3時限目は、ずっと保健室で寝てたわ。嘘だと思うのなら、保険室の細貝先生に聞いてみて。先生もその間、保健室にいたから」
「途中で抜け出したんじゃないの?」
 香恵が食い下がる。
「その理屈が通るのなら、ここにいる人全員に犯行の可能性があるでしょ。例えば、最後まで教室に残って着替えてた人とか」
 ゆらは彼女を正面から見据えた。その眼力の強さに、香恵はあからさまにうろたえた。
「最後に教室を出たのは、誰だったの?」
「そういえば、結城さんたち体育の授業に遅れて来たよね?」
 一人の生徒が指摘する。
「わたしは知らないよ! みんな、騙されちゃダメ! 棚橋さんのバッグから盗まれた物が出てきたのは事実でしょ!」
「もしわたしが犯人ならば、保険室の細貝先生と3年の近藤先輩も共犯ってことになるわ。近藤先輩も、わたしを心配してしばらくの間、保健室にいたのだから」
 嘘だった。ちょっとカマを掛けてみたくなったのだ。
「な、何よそれ! 言うに事欠いて、近藤先輩に罪をなすりつける気? なんて嫌らしい女なのかしら!」
 香恵が眉根を吊り上げて、いきり立つ。
「近藤先輩が、わたしが保健室で寝ていた証人なのは事実よ。今から本人に聞いてみてもいいけど。わたしとしては、警察を呼んでここにいる全員に事情聴取してもらっても、全然構わないわ」
 一歩も引かないゆらの態度に、周りにいた生徒たちがざわつき始めた。
 彼女を糾弾してやろうと息巻いていた香恵の取り巻き連中も、すっかり口数が少なくなっている。

 英国に留学していた時は、日本人というだけで数々の嫌がらせや差別を受けたものだ。周囲から孤立するのにも慣れてしまった。
 卑劣さ、姑息さで言ったら、ここにいる全員より自分のほうが遥かに上手だとの自負もある。こうしている間にも、ゆらは頭の中で、結城香恵という女子生徒をつつがなく退学に追い込む方法を十通りほど思い浮かべていた。
「そんなにさ、事を荒立てなくてもいいんじゃない? ほら、盗まれた物も無事に返ってきたんだしさ」
 取り巻きの一人が、仲裁に入った。悪戯に加担したはいいものの、状況が不利と悟って及び腰になったようだ。
「わたしへの嫌疑はまだ消えてないわよね?」
 ゆらはその生徒に向かって、語気を強める。
「そうだけど……」
「だったら白黒はっきりさせましょう。この中の誰が嘘を付いているか」
 集まったクラスメイトをゆっくりと睥睨する。
 視線が合いそうになると、そのほとんどの生徒が顔を逸らした。結局、そういうことか。実行犯は香恵たちのグループだが、他の生徒もそれを知っているのである。彼女たちに逆らえず、見て見ぬフリをしているのだ。
 ──でも、この感じ。
 しばしの沈黙が下りるなか、ゆらは一瞬、悪魔の気配を感じ取った。
 どういうことだろう。
 まさか、これも裏で悪魔が手を引いているのだろうか。ゆらがダンタリオンを倒したことに気付いた他の悪魔が、仕掛けてきたのか?
 しかし悪魔の宿主は、1年前のパーティーに出席した上級生のはずである。去年まで中学生だった1年生のなかに悪魔憑きがいるとは考え難いのだけれど。

「はいそこ、ストップね!」
 教室の後ろの扉から、一人の生徒が入室した。
 緑色のリボンを付けた3年生。腕には生徒会の腕章。
 生徒会副会長、養田亜子だった。
 長い髪をポニーテールで結んだ、闊達そうな女子生徒である。『生徒会の心臓』とか『学園のお助けマン』と呼ばれるくらい、とにかく一日中校舎を駆けずり回っている行動派だ。
 ──これは、偶然?
 悪魔の気配がしたのと時を同じくして、亜子が現れた。昨年夏のパーティーに出席していたと思われる容疑者が。
「クラスの子から、廊下で話は聞きました。何か問題があったみたいね」
 彼女は肩で風を切って、ゆらの座席に歩み寄った。
「いいえ、問題というか」
「ひとまず、解決を見た感じで」
 しどろもどろに答えながら、徐々に人の輪がばらけていく。
 この学園の生徒たちは、殊のほか諍いごとに敏感である。ほんの少しでも自分に悪評が付いて、その情報が他校へ伝わろうものならば、トレードの望みが絶たれてしまうからだ。できる限り穏便に、スキャンダルに巻き込まれないように行動する風潮が出来上がっていた。
 結局、最後までその場に留まったのは、ゆらと香恵を含めた数名のみだった。騒動の中心がこの両名だと判断した亜子が、二人の間に割って入る。
「それで? 何が盗られたって?」
「化粧品です。前の時間、体育で教室を空けてる間に紛失しました」
 香恵が固い声で答える。
「ふむ、そしてその無くなった化粧品が、あなたのバッグから出てきたと」
「そうみたいですね」
 相槌を打ちながら、ゆらは彼女をじっくり観察した。
 沙和のように能力こそ発現させてはいないが、微かに悪魔の存在を感じる。こればかりは言葉で説明するのは難しいが、悪魔が憑いた人間の側に近付くと、鳥の羽で腕の産毛を撫でられるような、こそばゆさを感じるのだ。
 ──三人目、かな。うん、間違いない。
 ゆらはふと暗鬱な気分になった。悪魔を排除するのは良いことのはずなのに、まるで学園に咲き誇る美しい花を一つ一つ摘み取るような罪悪感がある。
「分かりました。それじゃ、この件はいったん生徒会が預かるわね。あなたとあなた、今日の放課後に生徒会室まで来てちょうだい。そこで詳しい話を窺うわ。さあ、4時限目が始まるから、みんな席について」
 亜子はてきぱきと場を仕切り、香恵とゆらの二人にそう申し渡した。
 ──これは罠かしら?
 生徒会の役員には、彼女の他にもう一人、書記の八島満智がいる。彼女もやはり悪魔憑きの候補と目論んでいた。
「棚橋さん、だっけ? それでいいわよね?」
 亜子がゆらを覗き込んで言った。
「はい、放課後ですね。大丈夫です」
 警戒心を解かず、ゆらは了承の旨を伝えた。

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