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 ゆらの転校初日は、まさしく針のむしろだった。
 周囲から注がれる視線、視線、視線。
 どこに行っても何をしても、必ず誰かの視線が付いて回るのである。ある程度注目されることは覚悟していたものの、この状況はいささか異常であった。半分以上は好奇の眼差しだが、それに混じって殺気のこもった刺すような視線も感じる。もちろん、彼女たちとは今日が初対面なわけで、恨みを買った覚えなどない。
 その理由がどうやら彼女のルームメイトである多希のせいだと分かったのは、ゆらが食堂の隅で一人寂しく夕食を取っていたときだった。生徒会書記の八島満智という生徒が隣の席にやって来て、色々と情報をくれたのである。
「ようは、ただの嫉妬と羨望なんです。知らんぷりしてれば、そのうち落ち着きますよ。何か困ったことがあったら、生徒会室まで相談に来て下さいね。わたしたち、いつでも力になりますから」

 食事を終えて自室に戻ると、多希はすでに帰舎していた。
 ベッドに寝転んでポータブルCDプレイヤーで洋楽を聞きながら、雑誌を開いている。ボリュームはかなり大きめで、ヘッドホンから音が漏れ出ていた。一人部屋のときの習慣だろうか、同居人に配慮する気はないようだ。
「先輩もエアロスミスなんて聞くんですね」
 ゆらは一声かけて、制服を着替え始める。
 多希は雑誌から目を上げて、ボリュームを絞りながら言った。
「そういえば君、英国に留学してたんだっけ?」
「はい、1年だけ」
「向こうはどうだった? イギリスは食べ物とか不味いって聞くけど」
「そんなことありませんよ。わたしがいたのはセントアイヴスっていう南部の田舎町ですけど、海岸があって海産物は普通に美味しかったです」
「ふーん、羨ましいな。どうして1年で帰って来たの? 父親の仕事の都合か何か?」
「違います。もともと目的があっての単年留学でしたので」
 花柄をあしらった水色のワンピースに袖を通すと、食堂の自動販売機で買ってきたコーヒー牛乳のパックを開けた。
「うちの購買部、結構色んなもの揃ってるっしょ。こんな場所だから、大抵の生活必需品は注文すれば取り寄せてくれるよ」
「その雑誌は?」
「これは週末に町まで出て買ったやつ。CDとか、服とかもそう」
 彼女は机の引き出しから、クッキーが入った紙袋を取り出した。
「食べる? 調理部の後輩が差し入れてくれたんだ」
「美味しそうですね。いただきます」
 ゆらはコーヒー牛乳を飲みながら、差し出されたクッキーに手を伸ばす。
 多希はしばらくの間、黙って彼女の様子を眺めていたが、やがてぽつりと呟いた。
「今朝の話だけどさ、あれからずっと考えてたんだ。けれど、結局あのパーティーで何があったのか思い出せなかった。君、言ったよね。悪魔の存在を証明できるって。正直、悪魔とか未だ信じてないけど、あの日、わたしに何が起こったのか知りたい。証明できるのなら、やってみてよ」

「本気ですか?」
「もち、本気だよ。何か都合が悪いことでも?」
「いいえ、それならいいんです。悪魔を取り除くのは、わたしの仕事の一つですから」
 たぶん、多希は忘れている。校門前で、ゆらが最初に言い放った一言を。
『わたし、先輩を殺してしまうかも知れません』
 人に憑いた悪魔を取り払うのは、かなりの危険が伴う。悪くすれば、憑かれた本人の命を奪いかねない。そうでなくても重大な後遺症が残るのは確実である。
 ──先輩の学園生活は、今夜で終わるかも知れない。それでもやりますか?
 続く一言を、ゆらはクッキーと一緒に飲み込んだ。
 いや、ダメだ。考えるな。
 一瞬の気の迷いが、悪魔に付け入られる隙になる。心は常に平静に、たとえ先輩の夢や未来を奪う結果になろうとも、そこは徹底して無慈悲であれ。
 イギリスで1年間、死に物狂いで精神修養を積んだのは何のため? 己の甘さを断ち切るためでしょうが。悪魔に対抗するには、自分自身が悪魔にならなければ失敗してしまう。このまま悪魔の宿主として生きて行くよりも、結果的にはこれが彼女のためでもあるのだから、覚悟を決めなさい。

「では、始めましょうか」
 ゆらは固い口調で告げた。
 そこには一瞬前までの、迷いや躊躇いの感情は見られなかった。何人たりとも侵入を許さない、鉄面皮に覆われた無感動な顔つきがあった。
「わたしは、どうすればいい?」
 多希が問いかける。
「これから先輩の心の内側に入って、悪魔を元の世界へと送還します。先輩はベッドで横になって、楽にしていて下さい」
「それだけでいいんだ?」
「はい。あとはわたしに任せて下さい」
「分かった」
 不安を覗かせながらも、多希は言われた通りに横になった。緊張しているのか、胸の膨らみが忙しなく上下している。
 ゆらは自分の荷物の中から、一冊の魔術書と銀色の指輪を取り出した。細かな魔術文字が刻まれた指輪を左手の薬指にはめて、茶色い革表紙の魔術書を開いた。
 そしてベッドのかたわらに跪くと、多希の額に指輪を押し当てる。
「東の王アマイモン、西の王ガープ、南の王コルソン、北の王ジミマイ……72の悪魔を統括する精霊王よ……」
 流麗な口調で、ページに記された呪文をなぞってゆく。それに伴い、古びたインク文字が淡い光を放ち始める。
 やがて意識が一点に集中してゆき、まったくの無音が訪れた。
 ゆらはゆっくりと目を閉じる。肉体が空気に溶けて、自分の存在があやふやになる感覚が彼女を襲った。
 真っ暗な闇の世界。どこからか強い力で引っ張られてゆく。彼女はその流れに身を委ねる。

 ココハ、ドコ? ワタシ、ドウシタノ?
 はるか遠くから、その声が届いた。ゆらは声に導かれるまま流れてゆく。
 闇を形成する黒い粒子のようなものが、くっついたり剥がれたりを繰り返しながら、ある1ヶ所へと収束してゆくのが分かる。あそこにあるのは、黒い穴だ。あの穴の向こうに行かなければならない。
 黒い粒子が加速し、世界がぐにゃりと歪む。どこか高いところから落ちてゆく感覚。まるで流砂に呑み込まれるように、ゆらは黒い穴へと吸い込まれる。
 一転して、景色が白みを帯び始めた。とうとう向こう側へとやって来たのだと、ゆらは自覚した。空気と混在していた彼女の肉体が、再び形を取り戻してゆく。
「誰か、答えてよ。わたし、どうしたの?」
 突然、多希の声が間近で聞こえた。

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