魔術人形コーネリア 5

 出発の準備といっても、ミーナ自身が必要なものはショルダーポーチ1つに収まってしまう。携帯端末の他は、下着とタオルが入っているだけだ。
 ミーナは衛生環境が十分に整っていない時代を生きてきた。
 14世紀、黒死病が蔓延し、腐敗した死体が道端にゴロゴロと転がっていた地獄のような光景を知っている。下水が整備されず、建物の窓から汚物を投げ捨てていた、悪臭漂う人々の暮らしを知っている。
 身体を拭く清潔な水があるだけ、この屋敷での生活は快適なほうだった。
 ついでに屋敷のなかも一通り見て回ったが、特に価値がありそうな物は残っていなかった。
 食べ物も飲み物も必要ない。普通に経口摂取はできるが、食物から得られるエネルギーなど微々たるものである。
「さて。だいぶ長居してしまった」
 数時間の睡眠を取り、新月がまだ空に残る明け方、ミーナは屋敷に別れを告げた。
 息が白い。空気は澄み切っている。
 あれからラナイには会っていなかった。
 彼女が生きているかどうかも分からない。
 屋敷の外観は鬱蒼とした蔦に覆われている。空気が乾いているからよく燃えそうだが、念のため、昨夜のうちに窓のカーテンを外して壁の周りに置いておいた。
 着火材にするつもりだ。

(寒いから、早く焚火をしましょうよ)
(ええ。全力でやってみる)
(ドキドキしますね)

 赤いオーアは、いたるところから湧き出している。
 つい数秒前にも、彼女が立っている1メートル横に、間欠泉のように吹き上がった。
「やるよ」
 右手でオーアを吸い込んでゆく。
 限界まで溜めてみるつもりだ。
 オーアの流れを肌で感じる。燃えるような熱さと、脊髄が痺れる感覚。
 赤く光る瞳で自分の右手に目を配ると、肘から先が眩しいほどに輝いていた。
 数秒後、熱で頭がクラクラしてきた。この辺が限界だろうか。
 探り探り、ミーナは炎の呪文を詠唱する。
 右手を高く掲げると、空中に火球が生まれた。
 炎を制御するにはイメージが大事なのだと、ラナイは言っていた。幸いにも、ミーナがもといた世界では、この手のサブカルチャーに事欠かなかった。炎やビームが飛び交うファンタジー作品もたくさんあった。
 炎の球はどんどん大きくなる。直径4メートルを超えた。

(熱いです、ミーナ)
(もうダメ。支えきれない。投げるわ!)

 ミーナは火球を前方に放出した。
 炎の塊は形を崩しながら、建物の壁に命中した。
 オーアが一気に解放され、爆発が起こった。
 建物の壁が吹き飛び、熱せられた空気がつむじ風のように舞い上がった。かなり距離を取っていたにもかかわらず、ミーナのところまで細かい破片が飛んできた。
 屋敷は盛大な炎に包まれた。
 着火剤などまったく必要がない。すさまじい勢いで建物を覆った蔦を灰に変えてゆく。炎の高さは10メートルに達していただろう。
 朝方の空を、オレンジ色の光が照らし出す。バチバチと何かが爆ぜる音とともに、黒煙が立ち上ってゆく。
「さよなら、ラナイ」
 ミーナが呟いたその時だった。
 建物の東側にあった地下室の扉が、突然開いたのである。
 そこから現れたのは、一体の魔術人形。
 コーネリアであった。
「お父さん……お兄ちゃん……。会いたいよ……」
 ラナイの声がした。彼女はまだ生きていたのだ。
 背中に飛び火し、半分燃えながら、コーネリアはミーナに近付いてきた。
 だが、途中で足のジョイント部分が破断し、前方に倒れて動かなくなる。
 それきり声も聞こえなくなった。
 開け放たれた地下室の扉には、炎とともに熱風が吸い込まれてゆく。
 ミーナは無言でその様子を見つめていた。
 数分後、建物の二階が崩壊した。その重量に耐え切れず一階も崩れ落ちた。
 地下室の扉は、瓦礫に埋もれて見えなくなった。

(彼女、やっと楽になれましたね)
(ええ。良かった)
(それは本心ですか?)
(どうかな)

 ミーナは眉一つ動かさなかった。百万回と繰り返した光景である。悲しみどころか、感傷すら湧いて来ない。
 最後に涙を流したのはいつだったか。あまりに長い時間が経ち過ぎて、そんなことすら忘れてしまった。
 彼女はコーネリアに歩み寄ると、人形の胴体にステッキを突き刺した。
 爆炎によってダメージを受けていた胴体はバラバラに砕け、内側からカードサイズの鉄のプレートが顔を覗かせた。
 プレートには黄色く光る幾何学模様が刻まれている。
 黄色のオーアを固定させたマジックアイテム。魔術人形を遠隔操作していた種明かしがこれであろう。
「彼女との思い出の品だから」
 これだけは持って行こうと決めた。
 建物を包んでいた炎は、不思議と、森の木々に燃え移ることはなかった。まるで炎から森林を守るように、青いオーアが地中から湧き出しては、赤いオーアを打ち消しているのである。
 時間が過ぎ、薄暗かった空は、太陽の光によって明るみ始めてきた。
 炎の勢いもだいぶ小さくなった。
「出発しましょう」
 ミーナは半壊した建物に背を向けた。森の小道を東に向かって歩きだした。

 森の梢がガサリと揺れた。
「おっと、ミーナさんじゃないですか」
 不意に、頭上からのん気な声が落ちてきた。
 近くの木の枝に、スーツを着た男の姿があった。ネウロイである。
「あー、失敗したなあ。こんなところで会えるのだったら、替えの携帯端末を用意しておけばよかった」
「お前、何してるの?」
「何ってそりゃ、これだけ盛大に炎が上がっていれば、様子を見に来ますよ。この家はミーナさんが燃やしたのですか?」
「そうだけど」
 ミーナはそっけなく答えて、再び歩き出す。
「ちょ、ちょっと!」
 彼は慌てて枝から飛び降り、ミーナの横に並んだ。
「つれないじゃないですか。久しぶりに会ったのに」
「そうだ。屋敷の瓦礫の下に、あのボクサーの死体がある。回収したらどう?」
「ボクサーというと、連絡が取れなくなってる、あの?」
「そう。変な生き物に取りつかれてたから、わたしが殺した」
「恐ろしいことを、しれっと言いますね」
 ネウロイは肩をすくめる。
 ここで何があったのか。何がどうなって屋敷が燃えるような事態に陥っているのか。いきさつが知りたそうな顔つきだったが、面倒なので無視することにした。
 ネウロイは自分の携帯端末で、メールを送信した。ミーナを発見したと、さっそくキャンプに報告したようだ。
「ところで、キャンプとは逆方向ですけど、どこに行くんです?」
「東のほう。大きな町があるみたい」
「おっと、それは重要な情報ですね。キャンプには戻らないのですか?」
「もうわたしのことは忘れて構わない」
 ミーナは冷たく言い放った。
 最初から、彼らの調査に協力する気などなかったのである。ミーナが異世界にやって来たのは、単に自分の好奇心を満たしたかったから。わたしはわたしで好き勝手にやるから、そっちもそっちで好き勝手にやればいい。
 ネウロイは食い下がるように続ける。
「キャンプも、あれからだいぶ様変わりしたんですよ」
 ネウロイが言うには、向こうの世界から第二陣、第三陣の人員が送られて来て、50名を超える大所帯になった。
 コンクリートの建物が新たに増築され、今は沢の一部から横穴を掘って、地下に水道施設を作っている最中だという。
 キャンプに対する大がかりな襲撃は、この4ヵ月間で一度だけあった。肉の焼ける匂いに引き寄せられた野犬の群れであった。
 数が多く、まるで狼のように大型で牙が鋭く、しかも群れのリーダーを中心に統率が取れた行動をする。
 8名の負傷者を出したが、どうにか撃退に成功したそうだ。
 また、小型携帯端末のマッピング機能と、ドローンによる航空写真によって、周囲30キロ四方の地図が完成した。
 人工の遺跡が幾つか発見されているので、いずれ調査隊が派遣される予定である。
「今のところ、万事順調です。ポータルも安定しています。実は僕、1ヵ月ほど向こうの世界に帰って、つい先日戻って来たところなんですよ」
「間抜けね。わざわざ舞い戻ってくるなんて」
 ミーナは辛らつに呟いた。
「いやいや。こちらの世界を知る人間は、向こうの世界では監視対象ですからね。休暇中も付きまとわれて、息苦しくて、こっちの生活のほうが伸び伸びできるくらいです」
 一時間ほど小道を歩いたところで、森は急に終わっていた。

 切り立った崖が目の前にあった。高さ約30メートル。
 崖の下は、荒涼たる平原だった。
 木々はまばらに生えているだけ。その代わりに、奇妙な形をした植物が蠢いていた。
「あれは何ですか?」
「西部劇の草?」
 鮮やかな緑色をしているが、形といい、大きさといい、西部劇でよく見かけるダンブルウィードに似ていた。それが無数に存在している。
 しかも風に吹かれて転がるのではなく、餌に群がる昆虫のように、ある場所からある場所へと、集結と離散を繰り返している。
「気持ち悪っ! 草なのに、自分の意志で転がってる」
「特に危険はないみたい」
 ミーナは小さく遠視の呪文を口にした。
 はるか遠くに別の生物が見える。前足の爪がピックフォークの形をした、大きな草食獣だった。
 その動物は前足で転がる草を器用に捕まえ、のんびりと食事をしている。
 隣には同じく二頭の子供たちがいた。
 もし転がる草が危険であれば、動物の親子は棲み付かないはずだ。
「ほら、あそこに街道がある」
 ミーナは東の方角を指差した。
 丸い草たちが集団移動をするたびに砂埃を巻き上げるので視界が悪いが、確かに人の手が加わった街道であった。
 土が盛られ、平らな石が敷き詰められている。
 ただ、放置されて数百年は経過しているに違いない。
 街道を利用する人の姿はなく、積み石はところどころ崩れ落ち、風化した遺跡のようなたたずまいである。
「あの街道をずっと東に進めば、町が見えるはず」
 ミーナはそう言って、崖を降りられる足場を探した。
「本当に行くんですか?」
「別に付いて来いとは言ってない。お前は引き返しなさい」
「いや、とりあえず町までは行きましょう」
 ネウロイは多少、不安げな面持ちだった。
 なにしろ森の木々が途絶え、これ以後はなだらかな平原である。ジャガーが得意とする森林のテリトリーではなくなるのだ。
「町に入るかどうかは別として、場所だけは確認しておきたいので」
「そう。勝手にすれば」
 ミーナは軽く跳躍し、突き出した岩の上に飛び降りた。

 その頃。
 彼らのいる場所から遥か西方。
 空を覆わんばかりの巨大な物体が、ゆっくりと南東へ飛行していた。
 しかし、二人はその存在をまだ知らない。
 それが城塞都市セルギュネを舞台とした、これから巻き起こる激しい戦火の前触れだということも。

                          (第三章へ続く)


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