11

 青色の正方形をした床の上に、ゆらは立っていた。
 周囲は漆黒の闇に閉ざされており、このスペースだけ照明が当たったようにぼんやりと輝いている。正方形の縁には白い枠線が引かれ、床にはクッションが効いていた。足を踏みしめると、柔らかな弾力が跳ね返ってくる。
 これは多分、新体操のマットであろう。
 沙和は美術部部長に就任する前、新体操部にも所属していたのだ。
 そしてそのマットの中央に、ゆらは悪魔の姿を捉えた。
 ダンタリオン。
 ソロモン72柱の、71番。地獄の大公爵。
 外見は黒髪をした若い男だった。中世的な顔立ちで、少女漫画の主人公のような美男子である。ダンタリオンは老若男女、自在にその容姿を変えられるという。だとすれば、目の前にいる悪魔の姿は沙和の願望を反映したものに違いない。
 胸を大きくはだけたシャツに、なぜかジーンズを履いている。現代っぽい服装が妙にミスマッチに感じる。右手にゆらと同じく、一冊の書物を持っている。

『お前、誰だ?』
 ダンタリオンがぶっきらぼうに問うた。
「あなたを元の世界へと送り返すためにやって来た、魔女です」
 ゆらは指先を悪魔に突きつけた。
『なるほどね。とうとう気付かれたってわけか。まあ、あれだけ派手に力を使ってりゃ、バレないほうが不思議だよな』
「ダンタリオン、もう彼女を食い物にするのは止めて下さい」
『逆だろ? この女が俺を利用してるんだぜ?』
「最初に働きかけたのは、あなたのはず。でなければ彼女が悪魔の能力を自在に使えるはずがないもの」
『そりゃ、ちょっとばかり手引きはしてやったがな。とはいえ、要求をエスカレートさせていったのはこの女のほうだ。人間の欲求ってのは、際限がないからな。おかげで俺も徐々に力を蓄えつつある。お前らの言葉で、こういうの持ちつ持たれつって言うんだろ?』
「彼女に待ち受けるのは、絶望だけです」
『これまで散々いい思いをしたんだ。この女も本望だろうさ』
「彼女の肉体を乗っ取って、あなたは何をする気ですか?」
『さあねえ。お前の知ったこっちゃねえだろ』
 ダンタリオンはニヤリと笑った。
 ひとえに悪魔といっても、その性格は多種多様である。多希のインナースペースにいたアンドロマリウスは、正義感が強く罪人を罰するという、およそ悪魔にしては特異な存在だった。比べてこのダンタリオンは、そういった意味では実に悪魔らしい狡猾で残忍な性格をしている。

「彼女の中から立ち退いて下さい。でなければ、力ずくで排除します!」
 ゆらは宣戦布告した。
 ダンタリオンが髪の毛を掻きながら、億劫そうに応じる。
『出て行けったってなあ。他に行くあてもないし』
「あなたの居場所なら、ここにあります」
 と、手にした魔術書を広げて見せる。悪魔の顔つきが一瞬にして険しくなり、凄みを増した。
『そうかよ。そいつはソロモンの小さな鍵か。それじゃあ、俺も手加減はできねえな』
「抵抗する気ですか?」
 先手必勝。ゆらが一足飛びに距離を詰めようとする。
 だが、踏み出した足が、急に鉛のように重くなった。
 ──動けない。また、操られてる!
 しかも借り物の力でない分、沙和よりも束縛がきつい。ゆらは必死に抗おうとするものの、両足が彼女の意思とは関係なく前に進もうとする。
『その魔術書は危ないからな。こっちに渡してもらうぜ』
 今度は両手の自由が効かなくなった。本を手前に差し出し、まるでカラクリ人形のような動きでダンタリオンに歩み寄ってゆく。
「くっ!」
 ゆらは下腹のあたりに力を込めて、肉体の拘束を無理矢理解きにかかった。
 ──I won't give in to such a……devil!
 頭の奥でバチンと何かが弾けた。その瞬間、彼女の体が羽のように軽くなる。
『ほう、やるじゃねえか。精霊王の助力を得ているのか』
 ダンタリオンが感心して呟く。
「もう、諦めて下さい。あなたの力は、わたしには通じません」
『その割には、えらい消耗ぶりだな』
 悪魔はすっと目を細め、ゆらの動向を観察する。
『なあ。お前、弱いだろ?』
 核心を突いた一言だった。
「か、彼女のインナースペースに潜るために、力の大部分を割いているだけです。でなければ、あなたなんかに……」
『いや、そうじゃねえな。お前はもともと魔術の才能が低いんだ。だから精霊王から中途半端な助力しか得られていない。奴らの本来の力は、こんなもんじゃないだろ。奴らがその気になれば、俺なんか一瞬で消し炭にできるはずだ。ある程度はこちらの力に抵抗はできるようだが、お前からは有無を言わせぬ強さが感じられねえ』
「それは、あなたの見立て違いです」
 ゆらは荒い呼吸の合間に、否定する。
 確かに、四人姉妹のなかではわたしの力が一番劣っているかも知れない。それでも、わたしこそが悪魔を退治する役割に適任と判断されて、今ここにいるのだ。お母様は、姉や妹ではなく、わたしにこの魔術書を託してくれた。それが何よりの証ではないか。

『よう、もう帰りな。お前じゃあ、どう足掻いたって俺には勝てないぜ』
 ダンタリオンは興醒めしたように告げた。
「Not yet!」
 ゆらは再び、悪魔に接近を試みる。ダンタリオンに触れることさえできれば、こちらにも勝機は残っているはずだ。
『懲りねえ人間だな』
 2度目の衝撃が、彼女を襲った。後ろ髪を見えざる力に引っ張られ、背骨が弓なりになった。激痛が脳天を駆け抜け、ゆらは盛大な悲鳴を上げる。
「あああああっ!」
『どうする? このまま真っ二つに折っちまうか? 分かってるとは思うが、俺の能力が外の世界でも使えるように、この場所で起こったことは現実に還元される。お前の肉体もタダじゃ済まないだろうな』
「好きに、すればいい!」
 死んでも諦めるものか。
 背骨がミシミシと音を立てる。細くて白い首は反りかえり、血管の筋がくっきりと浮かび上がる。苦しさのあまり、瞳からは涙がポロポロと流れ落ちた。

「ちょっと、何だか騒がしいですわねえ」
 その時、のんびりとした声が、ゆらの耳朶を打った。次いで大きなアクビの音。
 ゆらの悲鳴を聞いて、どうやら沙和が目を覚ましたらしい。
『おっと、姫様が起きちまったか』
「そこにいるのは、誰ですの? さっきから耳元でワーワーとうるさくて、安眠妨害ですわよ」
「せ、先輩、わたしです! 聞こえますか?」
 ゆらが声を絞り出した。それを阻止すべく、更に力が加えられる。足を固定されているため、後ろに倒れることもできない。あと数ミリでも背中が湾曲したら、今度こそ脊椎が折れてしまうだろう。
 まだ、緊急避難は可能だった。魔術を解いて彼女のインナースペースから抜け出すべきか否か。ゆらはギリギリの選択を迫られる。
「わたくしまた夢を見ていますのね。ダンタリオンさんでしたっけ? もうわたくしの夢に出て来ないでってお願いしましたのに」
 と、沙和が不満をぶちまける。この二人は、やはり以前から接触を図っていたらしい。
『そう邪険にするなよ。俺とお前の仲じゃないか』
「あなたには素直に感謝してますけど、前にも言った通り、わたくし男の方は嫌いですの。何度も夢に出てこられては、寝覚めが悪くて仕方ないですわ……あら?」
 そこで初めて、彼女がゆらの存在に気が付いた。
「今日はゆらさんがいらっしゃるのね。嬉しいですわ。ですけど、どうしてラジオ体操してますの? 背中が弓のように曲がってますわよ」
『こいつか? いきなり現れやがったんで、ちょっとお仕置きしてやったのさ』
 ダンタリオンが得意げに吹聴する。
「それ本当ですの? だったら、お止めなさい。ゆらさん、苦しがってるじゃありませんか」
『ここは俺の縄張りだ。勝手に入って来たのは、こいつのほうだぜ?』
「ここはわたくしの夢の中です。あなたこそ、さっさと出て行きなさい」
 沙和の声に怒気が含まれる。ダンタリオンが彼女に事の真実を伝えていないのか、双方の認識には食い違いがあるようだ。
 付け入る隙があるかも知れないと、ゆらは苦痛に顔を歪めながら考えた。
「先輩……聞こえますか?」
「ゆらさん、大丈夫?」
「苦しいですけど、何とか平気です。それより、聞いて下さい」
『黙れ、小娘が! 余計な口を出すな!』
「ああああっ!」
 限界まで反り返った背中が、左右に捻られる。瞳孔が大きく開き、口の端から涎がしたたり落ちる。失いかける意識を、ゆらは死に物狂いで引き止めた。
「お止めなさいっ!」
 その瞬間、空中に出現した棒状の物体が、ダンタリオンの腹部を直撃した。
 悪魔はギャッと悲鳴を上げ、後ろによろめいた。
 彼の足下に転がったのは、新体操の棍棒であった。続いて逆方向から2本目の棍棒が飛来する。しかしダンタリオンはその軌道を予測して、ひらりと身をかわした。

『何すんだよ、てめえは!』
「わたくしの友人に酷いことをするからですわ。早く彼女を解放しなさい」
『嫌だと言ったら?』
「こうするまでです」
 マットの上空に、おびただしい数の棍棒が出現する。その数、数百本。重しのついた先端は、すべてダンタリオンに狙いを定めていた。
『おいおい、馬鹿な真似はよせよ。お前、自分が何やってるか分かってるのか? この女は敵だぞ? 俺を力ずくでここから排除しようって魂胆だ。そんなことされたら、お前だって今の力が使えなくなるんだぜ?』
「だからといって、彼女を傷付けることは許しません」
 沙和はきっぱりと言った。一歩も譲る構えを見せない。ダンタリオンは悔しそうに悪態をついた。
『畜生が! これだから人間は』
「さあ、早くしなさい」
『ああそうかい、分かったよ。ただし、交換条件が一つある。お前がこの女をここから追い出してくれ。そしてもう二度と、この空間に近付けるな。容易いことだろう?』
「承諾しましたわ。ゆらさんには、わたしからお願いします。さあ、彼女を自由にしてあげて」
 取引が成立したようだった。
 ゆらを縛っていた悪魔の能力が、一瞬にして消えて無くなったのである。

「先輩、ごめんなさい! でも、悪魔を仕留めるには、このチャンスを逃すわけには行かないから!」
 ゆらの行動は素早かった。体操マットの弾力を利用して、大きく飛び跳ねながらダンタリオンに肉薄する。
 これほど躊躇のない行動に出るとは、さしもの悪魔も想定外だっただろう。
『お前、話が違うじゃねえか! あの女がどうなっても……』
 彼は最後まで喋れなかった。
 ゆらが茶色の魔術書を開いて、中のページに描かれたシジルを悪魔の体に押し付けたのである。
「悪魔よ、立ち去りなさいっ!」
 ソロモンの小さな鍵がまばゆく輝き始める。
『嘘だろ。おい! ぎゃあああああっ!』
 ダンタリオンの断末魔の叫び。彼の肉体は塵のようにバラバラになって、本のなかへと吸い込まれていった。
 光が収まると、後には虚無の空間が残された。あのおびただしい数の棍棒もいつの間にか消え失せ、沙和の声も聞こえなくなっている。インナースペースに深く根ざしていた悪魔がいなくなり、彼女の精神にも何らかの影響が起きたに違いなかった。

 数秒後、空間自体が崩壊を始めた。
 ジグソーパズルを一枚一枚剥がしていくように、青色のマットが端のほうからボロボロと崩れてゆく。
「沙和先輩、聞こえますか? わたしの声がまだ届いてますか? 届いているのなら、覚えておいて下さい。先輩はこれから重大な困難に直面するでしょう。けれど、先輩ならその困難に打ち勝って、もとの生活に復帰できると、わたしは信じています。信じてますから……」
 無責任なようだが、ゆらがしてやれる精一杯の激励だった。
 悪魔を取り除く行為は、その宿主に重い障害を残してしまう。その人の人生をも狂わせてしまう。頭では理解していたことだが、直面した現実は想像よりもはるかに厳しい。
 沙和先輩は、紛れもない善人だった。魅力的な人でもあった。こんな理不尽な出来事に巻き込まれるべき人じゃなかった。
 それゆえに、この咎を、自分は一生背負っていかなくてはならない。
 後悔はすまい。後悔するぐらいだったら、最初からやらないほうがマシだ。
 ──最低。最低。最低。
 ゆらは唇を固く結んで、泣きたくなるのを堪えた。
「先輩、頑張って下さい。本当に、頑張って!」
 そして祈るように別れの言葉を残し、現実の体へと戻っていった。

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