聖剣狩り(後編) 2

 教会に向かう道すがらのことである。
 一匹のアシカが死にかけていた。
 彼の背中には甲虫の角が深々と突き刺さったままだ。
 近くの水路まで、たったの20メートル。ここまで逃げてきて、不運にも流れ弾に当たってしまったらしい。
「そこのアシカさん、死んでますか?」
 セスカは彼の目の前にちょこんと座り、指先で黒いアシカを突いてみた。
 名前は確かオ・クックと言っていた。こんな生物が何匹もいるとは思えないので、多分本人だ。
「ウオッ……ウオッ……僕は、もう、ダメみたいですよ」
 しゃくり上げる鳴き声も、すでに弱々しい。
「それは残念でした。魔術の話を聞きたかったのに」
「ウオッ……あなたは……そうか。水浴びの時に会った……」
 思い出してくれたようだ。
「こんなところで死んでしまうのは、さぞや無念でしょう?」
「はい……とても」
「あとちょっとで水の中に逃げられたでしょうに、ねえ?」
「ウオッ、ウオッ」
「おまけに、あなたの作った魔術高射砲、まったく役に立ってませんけど?」
「こ、壊れているのです。ウオッ、昨夜の、爆発騒ぎで」
「直せなかったんですか?」
「時間が、足りませんでしたよ。あとは、地上の、導線を、交換するだけだったのに」
「その導線は、どこに?」
「ウオッ、け、研究所です。もっとも……石像に壊されて、ウオッ、瓦礫に埋まってしまいましたが」
「つくづく、運がないというか」
 セスカは堪え切れず、噴き出した。じゃあお前がこの町にやって来た意味は何だったのと、おかしくて溜まらない。
 オ・クックはつぶらな瞳から、涙をぽろぽろと流し始めた。
 意識が遠ざかり、ますます声が小さくなってゆく。
「ウオッ……本当に残念なのは、僕の、僕の……魔術に関する、知識が、ここで、失われてしまうこと、ですよ。ウオッ……こればかりは、世界の、損失だと思います」
「その知識、記録には残さなかったんですか?」
「はい。この仕事が、終わったら、本を書くつもりでした……」
「んー」
 セスカは指先をあごに当てて考える。
 命を助けてあげましょうか。それとも見捨ててしまいましょうか。
 ミーナだったら間違いなく助けていただろう。
 彼女は何事も秩序立てて考え、行動する。このアシカの命を救うことが、自分にとって得となるならば、他人のために労力を惜しまない。
 それはセスカには、さっぱり理解できない感覚だ。
 生物の命は奪うためにあるもの。奪って糧にするためにあるもの。
 他の生物を殺すことは、セスカにとって息を吸って吐くくらい、ごく自然な行いなのである。
 だからまったく悩まないし、躊躇もしない。
 道端に生えていた雑草をたまたま踏みつけて、罪悪感に苛まれて涙する人間がいないのと一緒だ。その雑草を一個の生命と考えていないから、足の裏で踏みつけても何も感じない。
 ではその雑草が、きれいな花を咲かせていたとしたらどうだろう。
 いや、同じことだ。
 どんな珍しい形をしていようとも、雑草は雑草でしかない。
 娯楽のために引っこ抜いて遊ぶことはあっても、かいがいしく肥料や水をやることはあり得ない。
「んー。何だか、頭がかゆくなってきちゃいました」
 つまりはそれくらい、セスカは他人の命を助けるという行為が理解できないのだった。
 こうやって考えること自体、彼女にとっては非常に稀なことである。
「ゥォ……ゥォ……」
 時間が過ぎ、いよいよオ・クックの死が近付いていた。

 馬鹿馬鹿しい。
 わたしはなぜ、こんな些細なことで悩んでいるのでしょう?
 それはきっとミーナのせい。
 セスカでいる時間よりも、ミーナでいる時間のほうが、最近はずっと長かった。
 だから価値観に変化が表れ始めたのだ。
 けれど、このなだらかな兆候に、セスカは多少の面白さを感じていた。
 なぜなら、もともとミーナの人格は先天的に存在したわけではなく、後から意図的に作られたものだから。
 解離性の人格障害とは根本的に異なる。
 どちらかというと、幼い子供が空想上の友達を頭の中で作り上げる、イマジナリーフレンドに近いだろう。
 セスカの脳内では、ミーナという人格は確固たるものとして存在している。それと同時に、セスカの人格ももちろん存在している。
 二人は記憶を共有していて、別々の意識として会話もできる。
 セスカがミーナを生み出したのが、約400年前。
 それ以来、二人はずっと一緒だった。同じものを見て、同じものを聞いて、同じ世界の移ろいを経験してきた。
 400年の時を生き、その間の記憶の蓄積がある一つの人格。それはもはや、一個人と呼んでも差し支えないのではないだろうか。
 これは非常にデリケートで難しい問題だが、例えば人間に作られたAIは、どこまで人間に近付けば一個人の人格として認められるのだろう。
 人間の脳そっくりに作られたAIと、人間の細胞から作られたクローンの脳みそ。
 両方が完全に同じものだった場合、両方とも人と呼べるのだろうか。
 少なくともセスカは、この400年をかけて、ミーナという架空の人格を、一個人にまで昇格させた。
 彼女を知る周りの人間も、ミーナを一個人として扱っている。
 二人は一つの記憶、一つの肉体を共有している。
 お互いがお互いに干渉する場合は、きちんと話し合って決める。
 当然、いつでも好きな時に入れ替わることが可能である。両者の同意が得られれば、という条件付きではあるが。
 今回、セスカが表に出てしまったのは、頭に大きな損傷を受けたため、その再生過程で手違いが起こったに過ぎなかった。
 ミーナは未だ目覚めていない。だから彼女の判断も仰げない。
 わたしはこのアシカを助けるべき?
 実際に考えていたのは、ほんの数十秒のこと。
 そしてセスカが出した結論は、実に単純明快だった。
 深く考えるのは止めましょう。わたしにロジカルな思考は似合わない。
 とりあえず、気まぐれで助けてみましょう。それで失敗したと感じたら、即座に殺してしまえばいい。
 セスカの中で、その考えは何となく腑に落ちた。
「えっと、いい知らせがあります。これまではとっても不運でしたけど、最後の最後であなた、運を掴み取れましたよ」
 セスカはオ・クックの背中から甲虫を引き抜いて、捻り潰した。
 黒い曲線が大きく後ろに反り返り、ビクビクと痙攣する。
 セスカは魔術書に書いてあったヒールの呪文を唱えた。
 全身が白いオーアで満たされている彼女は、実は回復の魔術が最も得意なのである。
 ごく一般的なヒールの呪文が、驚くべき効果を発揮する。魔術がオーアの量に比例するのは、どうやら間違いない事実のようだ。
 オ・クックの背中の傷は、たちどころに塞がった。
 そして弱まっていた体内のオーアも、活発に活動を再開する。
「あ、あれ? ウオッ、痛くない。ウオッ、ウオッ、ウオッ。背中が、痛くありませんよ。何ということでしょう。これはありがたい。もしかして、あなたはヒールの呪文が使えるのですか?」
 セスカはそれに答えず、オ・クックの首を鷲掴みにした。
「あのぅ、調子に乗らないでくださいね。お前など、すぐにでも殺すことができるのです」
 微塵の感情も籠っていない冷淡な瞳。
 彼の分厚い皮膚に、セスカの爪がギリギリと食い込んでゆく。
「ウオッ、す、すいません。それだけは、勘弁してください」
 彼は一瞬にして、己が置かれた立場を理解したようだ。
 傷は完治したが、死は決して遠ざかったわけではなかった。死は未だ、彼のすぐ目の前に存在しているのだという事実を。
「いいですか? 条件を伝えますね。あなたはさっき、魔術書を書きたいと言いました。では、それを一冊、複製でもいいですから作って、わたしに提供してもらえますか?」
「も、もちろんです。お安い御用です」
「それでは、書き上がった本を、あの教会の裏にある墓地に埋めておいてください。その際に場所の目印として、『メイリーヤ』と墓石に赤い文字を残すこと。期間は、そうですね……半年でしょうか? 書く内容が決まっているのなら、半年で十分ですよね?」
「ウオッ、はい。半年もあれば、書き上がると思います」
「いいでしょう。条件は成立しました。もしこの約束が破られた時は、どうなるか分かっていますね?」
「決して、決して、約束は保護にいたしません。天命に誓って、はい」
 オ・クックは何度も何度も首を縦に振った。
「行ってください。もう二度と、変な死に方はしないように」
 セスカは手を放してやった。彼は四つん這いのまま、ウオッウオッと鳴き声を上げながら、一目散に水路目がけて逃げ出した。
 その後ろ姿は、まさしく動物園で見たアシカそのものである。彼は二足歩行よりも、四つ足のほうが速く歩けるのだった。


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