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 午後6時を過ぎても、美術室の明かりは点いていた。
 多希は部活動を終えたあと、寮に戻らずに西側校舎が見える渡り廊下に直行した。渡り廊下の近くには水路が流れており、そこに座って素足を水にさらして疲れをとっている生徒の姿をよく見かける。温泉地にある足湯のようなものだ。
 多希もそれに倣って、休憩をとっているフリをした。
 しかし彼女の本当の目的は、美術室の監視にあった。
 ──バカみたいだな。何でわたしが気を揉んでるんだか。
 ゆらは今日の放課後、美術部を調べてみると言っていた。部活動見学を装えば、怪しまれずに近付けるだろうとも。
 今、あの教室で二人は会っているのだろう。
 彼女たちの様子が気になって、多希は部活動にまったく身が入らなかった。こんなことは初めての経験である。一体、どうしてしまったんだろう。これではまるで、恋する乙女そのものじゃないか。

「あー、先輩! ここにいたんですねー!」
 東側校舎から、渡り廊下を勢い良く駆けてくる音が響いた。
 満面の笑顔でやって来たのは、結城香恵だった。左右のお下げが、ピョンピョン跳ねている。その特徴ある髪型から、確か『ロップ』というあだ名がついたと聞く。ロップイヤーラビットに似ているからだ。
「結城さんか。どうしたの、こんなところへ」
 多希は気のない返事をした。
「ひっどーい。多希先輩を探してたんじゃないですか。忘れたとは言わせませんよ。放課後一緒にお茶しましょうって、約束しましたよね?」
「あれ、そうだっけ?」
「あー、ひどーい。香恵、すごく楽しみにしてたのにー」
 香恵は頬を膨らますと、甘えるように多希に擦り寄ってきた。
「ちょっと、結城さん」
「ふふん、でもいいんです。こうして先輩と二人きりになれたんですから」
 靴と靴下を脱ぎ捨て、ちゃっかり隣に腰を下ろす。
「まだシャワー浴びてなくて汗臭いから、近寄らないほうがいいよ」
「先輩の汗の臭いなら、大歓迎でーす」
 まさしく、寂しがりやのウサギそのものだった。悪い子ではないと思うのだが、まとわり付かれると少々うっとおしい。

「珍しいですね。先輩が体育館からわざわざこっちまで足を運ぶのは」
「うん、たまには気分転換と思ってね」
 気もそぞろに応じる。
「西の水路って、東に比べていつも人が少ないですよね。この先の池に幽霊が出るからみんな近付かないんだって噂ですけど、本当かなあ」
「幽霊ね」
 昨日までの自分ならば、信じなかったかも知れない。
 でも、悪魔の存在を知ったからには、その幽霊とやらも自分と同じく悪魔に憑かれた生徒の仕業なのではないかと疑ってしまう。
「多希先輩、一緒に見に行きませんか? 何だか面白そう」
「遠慮するよ。あんまり興味ないし」
「え~、行きましょうよー」
 香恵がぐいと手を引っ張った。
 多希が困り果てた表情で彼女を諌めようとしたその時、美術室の明かりが消えるのが目に入った。
 彼女は香恵の手を振り解き、反射的に立ち上がる。
「キャッ!」
 香恵が悲鳴をあげて、尻餅をつく。非難がましい目つきで多希を見上げて言った。
「もー、先輩。痛いじゃないですか」
「ごめん」
 西棟の入口に目を向けたまま、おざなりに謝る。
 ややあって、一階の廊下を美術室のほうから誰かが歩いて来るのが見えた。重なり合った二つの人影は、ゆらと沙和であった。二人は仲良く肩を並べて、西棟の出入り口から姿を現す。意外なことに、ゆらの顔には穏やかな笑みが浮かんでいた。

「あれ? あの子、棚橋さんですよね。彼女、美術部に入部したのかな?」
 香恵が疑問を口にした。
「何だかみょーに、いい雰囲気ですねえ。ほら、手なんか繋いじゃって。美人が肩を並べていると、絵になるっていうか、一般人は及びでないって感じですね」
 その声を、多希は呆然と頭の隅で聞いていた。
 ──ねえ、なんで仲良く手を繋いでるわけ?
 胸の奥が酷くざわついた。
 お似合いだというのは、確かに言えてる。背丈も同じぐらいで、両方ともタイプこそ違えど、目を見張る美人である。あの二人に堂々と歩かれたら、余人が近付ける空気ではなくなるのは、香恵の言う通りだ。
 ──けどさ、鴻野さんは仇敵じゃなかったっけ?
 彼女の内側に宿る悪魔を取り除くために、美術室に行ったと思ったのに。これも彼女を欺くための演技なのだろうか。彼女を油断させて、その隙に悪魔を排除する算段なのだろうか。
 ごく自然に思えるゆらの笑顔。多希の前では一度も見せなかった明るい表情だ。
 二人は世間話に興じながら、渡り廊下を通ってこちらに歩いてくる。
 本人に訊ねてみよう。
 もし作戦のうちだったら、余計な真似はするなと怒られるかも知れない。だけど、彼女たちの絡まった指先の理由が分からないままでは、気持ちの整理がつかなかった。

「棚橋さん、あのさ……」
 数メートルの距離まで近付いたところで、多希が声をかける。
 ところが。
「わあ、とても助かります。ここに来る前に荷物をあらかた処分してしまったので」
「どうせ使ってない物だから構いませんわ。ウェッジウッドの可愛らしいティーカップも余ってるから、ついでに差し上げますわね」
「嬉しいです。イギリスにいたとき、ウェッジウッドのティーカップ愛用してたんですよ」
 ゆらと沙和は何事もなかったように、多希の真横を通り過ぎた。
 ──無視された!
 カッと頭に血が上った。彼女は拳を固く握り締め、声を荒げて叫んだ。
「ゆら、待ちなよ!」
 思えば、ゆらを下の名前で呼んだのは、この時が初めてだった。
 二人は足を止め、何事かと驚いて振り返った。
「近藤先輩じゃないですか。どうしたんですか?」
「どうしたって……」
 君が心配で待ってたんだ、という一言を喉奥へと飲み込む。急に気恥ずかしくなったのである。自分でも未だ整理ができていないこの感情を吐露する勇気を、今の多希は持ち合わせていなかった。
 再び口を開こうとする彼女の機先を制して、ゆらは信じられない一言を発した。
「ちょうどよかった。近藤先輩、わたし今夜は鴻野先輩の部屋に泊まります。もし寮長が見回りに来たら、うまく誤魔化しておいて下さい」
「なっ……」
 多希は開いた口が塞がらなかった。部屋に泊まるって、つまり、そういうこと?
 鴻野沙和が気に入った後輩を自室に連れ込んで、何やらいかがわしい行為に及んでいるという話は、多希の耳にも入っていた。沙和がレズビアンであることも、半ば公然の事実である。しかし女子高においては、女同士の恋愛関係など別に珍しくもないし、本人たちさえ納得済みならば他人が口出すことではないという不文律が存在している。
 ──だからって、何でゆらが?
 信じられない。彼女はもっと清廉な少女だと思ってたのに。結局、誰でもいいわけ? 悪魔を退治するためならば、誰とでも簡単にベッドを共にするんだ?

「今夜は長い夜になりそうですわね」
「いやだ、先輩。オヤジみたいですよ」
 遠ざかってゆく二人の背中を、多希は黙って見送るしかなかった。行かないで欲しいのに、ここまで来ても強引な態度に出られない自分に心の底から絶望しながら。
「多希先輩、わたしも今夜、お泊りに行ってもいいですかー?」
 空気を読めない香恵が能天気に話しかけた。
「ごめん、わたし帰る」
 多希は身を翻すと、香恵を置いて大股で歩き出した。もう何もかもが、煩わしくて仕方なかった。
「あんな子、どうでもいいよ。勝手に誰とでも寝ればいいさ」
 それが本心でないことは、彼女自身が一番よく分かっていた。



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