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人間の特権は欲求

いつもこうだ

宇佐神宮にお参りにきたのに
その手前の道案内にみちびかれ
ちがう方向に足がむかう


宇佐神宮は過去にもきたことがある
父の故郷でもある


去年あたりから時々頭にうかんではきてたけど
先日の赤間神宮を見た瞬間
次は宇佐神宮だと直感した



いちおう神社のことを
前もって調べる

でも正直、
神様の名前とか由来とか
漢字ばかしで全然頭に入ってこない



わたしが神社に行くのは
まずそこへ行きたいと思ったとき。
あるいは
もう行くしかないな、というシンクロが重なったとき。



そこに行くと何かがある
という期待とか、お役割が、とか
そういうのは全くない


なんとなく
いつも行きたいから行く

行くと
「あ〜こういうことだったのね」
と分かるのだ



話はもどり、


今回も宇佐神宮の本殿にむかう途中
やじるしの道案内が目に入り
なんとなく足がそちらに向かった

けっこうな険しい階段をせっせと登ると
静かに佇む神社があった


そこは八幡の神様を祀ってた

宇佐神宮は八幡さまが御祭神だけど
この八幡さまというのが謎めいていて

どうやら天皇の皇祖神なのだそうだ


実態がなくてとても神秘的
わたしはすき


門の中に入れたので
しばらくそこで目をつむってた・・



鳥のさえずりが聞こえ
ときおりカラスがバッサバサときて
とても見られてる感じ・・


葉のあいだから日がこぼれて
わたしの顔にあたってる・・

カサカサと落ち葉がこすれる音が
四方八方からする
どんどんその音が近づいてくる


思わず目をあけたけど誰もいない・・


風で木々の葉っぱが
舞い落ちてる

風がふいてる


葉っぱがゆれてる


落ち葉がかさなってる


日がこぼれてる


鳥がないてる


わたしはその場所で
ただ目をつむってた


人はこれを瞑想というのかもしれないけど
それができてたら
遠くの野球部のかけ声をうるさいとは感じないはずだ


でも一つわかったことがある


欲求って人間の特権だなって



そこで目をつむってると
自分も木々たちの一部になった感じがした
風になった感じがした


日にあたり風にふかれ
雨にうたれているうちに
次の風でヒラヒラと舞い落ち葉の上にかさなる


石がそこにある
苔がそこにはえてる


ただそれだけ

なんの抵抗もない


そんな意識から
目をあけると自分にもどった



一度、無の意識になってみてわかった


人間をしているわたしは
そういう自然の流れもいいけど
もっと肉付けして
ああしたい、コレ欲しい、ってもっと願えるじゃないって


そういう自然の流れはすでにもっているのだから
人間の特権をつかいこなそう、と


まず人間の三大欲求
食う・寝る・出す

これは最低限かなえてあげよう


それ以上の欲求をのぞむときに
力んでしまい、叶わなくなる
でもそれは敢えて
自分がそういう設定をしている


何でも望めば叶う、だと
宇宙にいたときとおんなじで面白くないから
望んでも叶わないを地球にやりにきてる


 
時間や場所やお金という
しばりのある会社の中に身をおき


わざとそのしばりを使って
願いを叶えていくという遊びをしている


今日ここにくるのだって
平日は仕事で来れないから会社の休日を利用した


本当はいつでも来れるのに・・


そういうしばりがないと
自分の欲求がまだわからない
というのもある


だから自分の欲求をどんどん把握できるようになれば
しばりは必要なくなっていくのかな、と


そうなれば自然に
会社に身をおく必要がなくなるんだろうな、と思った


宇宙にいたときと同じ “望めば叶う”を
わたしが自分にゆるせば
どんどん叶っていくんだろうな、
ということがわかった


どんなことも願っていこう


きたない欲求も
最低な欲求も
自己中な欲求もどんどん願っていこう


そもそも汚いも最低も自己中も
ないのだから


ビシッとスーツで参拝しようが
ジャージにサンダルで参拝しようが
どっちでもいい


お賽銭を入れようが入れまいが
関係ない


ただ
わたしがどうしたいのか、
これを願えばいい


そう思った今回の宇佐神宮の旅でした


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