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【考察】『ボーはおそれている』にみるトラウマとそのセラピー

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待望のアリアスターの最新作、『ボーはおそれている』を早速観に行ってきた。映画館と物販の列はハイキューグッズを持った人で溢れていたが、その人混みをかき分けて大島依提亜さんの素敵なパンフレットも無事にゲットできて満足である。

この『ボーはおそれている』(“Beau is Afraid”)は、アリアスターの短編 "Beau"が元ネタになっている。過去のアリアスター短編7作を観ることができるこの “I HOPE THAT PEOPLE FEEL UNSETTLED” という冊子を3年ほど前に買っていたのだが、 “Beau"もここに収録されている。各短編の解説とシナリオまで載っており、これだけ充実の内容で1000円なんて、絶対に買って損はない。勝手に宣伝させてもらう。

さて、『ボーはおそれている』について、「我々はお金を払って、アリアスターの暴露療法セラピーに付き合わされる」という意見を目にしたが、端的に言うとその通りの映画だったと思う。

そもそも『ヘレディタリー』『ミッドサマー』と、自分のトラウマを描き、それをセラピーするような作品を撮り続けているので今作も例外ではないのだが、2作品に共通する「家族の呪縛」というテーマを今作ではより正面から描いている。
故に、映画の2/3はインフルエンザのときにみる悪夢みたいな映画だったけれど、前2作品と同様、『ボーはおそれている』も、トラウマを刺激されつつ、最後にはそれが癒されるというセラピーになる人もいるのではないかと思う。

この物語を一言で表すなら「家に帰る話」となるのだが、前作『ミッドサマー』に続き、これにも『オズの魔法使い』をみることができる。アリアスターは『オズの魔法使い』が好き、というよりは、家、つまり自分の居場所であるHOMEに辿り着くまでの物語という点で、アリアスターが描き続けているテーマと根っこの部分で繋がっているからのような気がする。
途中の演劇のシーンでつぶやいていた「生涯をかけて家族を探していたんだ」というセリフこそが、アリアスターの映画制作の原点なのではないかと思う。

ところで、オズの魔法使いをモチーフとしたロードムービーといえば忘れてはいけないのが、デヴィッドリンチの『ワイルドアットハート』である。

Wild At Heart

そもそも、2/3のインフルエンザのときにみる夢のようなパートは、どこまでが現実でどこからが妄想なのか非常に曖昧なところがあり、起こった出来事の全てを現実として捉える必要はもちろんない。その点で、『ボーおそれている』にはなんとなくリンチぽさを感じているし、序盤にでてきたえげつなく治安の悪い地域に住んでいる謎の人々たちも、リンチ映画に登場する「よくわからないが強烈なインパクトだけを残していく人たち」のような存在だと思っている。なので、リンチ映画を観たことがある(そして好きな)人であれば、そこまで「????」とならずに、「ああこのパターンね」と冷静に(?)観れたのではないかと思う。
あの不自然に明るくて優しい医者夫婦も、『マルホランドドライブ』の冒頭に出てくる老夫婦のような感じがする。

さて、先ほどこの映画をセラピーだと言ったが、正直私は『ヘレディタリー』『ミッドサマー』ほどのカタルシスを感じることはできなかった。理由は明白で、前2作は「居心地の悪さを感じていた主人公が、しがらみから解放されて自分の居場所を見つけることができる」という比較的わかりやすいラストだったのに対して、『ボーはおそれている』のボーは最後まで救われなかったからだ。お、そろそろ終わりかな?というハッピーエンドの雰囲気を漂わせておいて畳み掛けるように二転三転するラストは全然気が抜けなかった。

ではこの映画のカタルシスは誰のものなのか。それはおそらく母親のものであるように思う。
母親はボーのことを帝王切開で産み(冒頭のシーンは産まれる胎児ボーの一人称視点。ここもリンチの『マルホランドドライブ』を彷彿とさせる)、愛情を絞り出して注いできたが、思うようにいかない。その母親の愛情もかなり歪んでいるのだが、そもそも、女性だけが妊娠と出産の負担を強いられ、「母性」などというありもしないものを世間から期待され、息子からは疎まれつつ都合の良い時だけ「母の愛」を求められる。その重圧が彼女自身を歪めてしまったのではないかと思う。だから、屋根裏にいた巨大ちん◯の妖怪が父親というのはある意味真実で、セックスだけしてその後の苦労は全て自分に押し付けた、ちん◯に頭を支配された男、もはやちん◯でしか物事を考えてない妖怪みたいなやつ、と認識しているのだと思う。

正直、この気持ちは理解できてしまう。また、アリアスター自身も言及していたが、ポランスキー『反撥』に通ずるテーマでもある。
一方で、「だからその苦労を子供を完璧に自分の支配下に置くことで報われようとしている」ことがおかしいこともわかる。

暗示的にずっと出てくる「水」は、映画分析の世界では女性性のメタファーであるというのはよくある話で、それに沿って読むとあのラストシーンはボーの胎内回帰。であるとするならば、母親にとってはずっとボーを所有することができるという「ハッピーエンド」だ。

一方で、主人公視点でラストを観ると、どうしてもこのメッセージを読み取ってしまう。
「産まれてこなければよかった」
これに気がついたとき、かなり心がザワザワした。けれどこの感情を抑圧したり隠したりせず、あえて表現することでかえって楽になり、乗り越えるというセラピーなのかも、という気もしている。

アリアスター作品を3作(+短編7作)をみていれば、流石にアリアスターのトラウマみたいなものがわかってくる。が、ある意味そこまでパーソナルな部分を開示した作品を世界中に公開し続けているメンタルもすごいと思う。おそらく、母親に対してしたこと(モールで隠れたり、下着を友達にあげたり等)は、アリアスターが実際にしたことなのだろうなと思う…。

そして、『ミッドサマー』にもあったが、乗り気じゃなかったのに人に勧められて嫌々やったドラッグでバッドトリップした、という思い出を相当根に持ってるんだろうな、ということもわかってちょっと面白かった。

ラストに救いがないだけに、トラウマになる人/トラウマを刺激される人はもちろんいるのだと思うが、一方で、こんな思いをしていたのは自分だけではなかったんだというある種の共感を得ることもできるのではないかと思う。それ故に、この映画がセラピーになるという人もいるのではないか。しかもそれは母親と息子の両方の立場で可能なのだから、やはりアリアスターは抜かりない。

『オオカミの家』とのコラボ

さて、あの演劇パートの美術は、『オオカミの家』の作者、クリストバル・レオンとホアキン・コニーシャが担当したようだ。確かにどことなく『オオカミの家』に雰囲気が似ている。都内数カ所でしか上映されていなかったが、アリアスター絶賛!という宣伝文句をみて観に行ってよかった。



おわりに

『ヘレディタリー』『ミッドサマー』のえげつない完成度に比べると、『ボーはおそれている』はアリアスターのやりたいことを詰め込んだ作品なんだなと思う。なので本国アメリカでは大赤字、というのもわかる気がするが(笑)、すでに制作に取り掛かっているらしい次回作も、私は楽しみに待っている。

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