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『ミッドサマー』は「変態のためのオズの魔法使い」?

“Is it your Mamma Mia?” we asked. “Yeah, sure, I’d say so,” he laughed. “It’s a Wizard of Oz for perverts.”

アリ・アスターはとある海外メディアのインタビューで『ミッドサマー』について聞かれた際、こう答えたそうです。変態のみなさん、ごきげんよう。ミッドサマーシリーズ第3弾です。

『ミッドサマー』はアスターにとっての『マンマ・ミーア』か?と尋ねるインタビュアーもなかなかのセンスだけど、その答えが「変態のためのオズの魔法使い」というのも面白い。そして確かにそう言われてみると『ミッドサマー』はアスターの言う通り、大変にひねくれた、まさに「変態のための」オズの魔法使いにみえてくるのだ。

ストーリーとキャラクター

さて、「子ども心を忘れていない人のための」ジュディガーランド主演、名作『オズの魔法使い』のストーリーは、ざっくりこんな感じ。

竜巻で家ごと飛ばされたドロシーが降り立ったのは不思議なオズの国。たまたま家で潰しちゃった東の悪い魔女の靴を履いて、なんでも願いを叶えてくれるという「オズの魔法使い」がいるエメラルドの都へ、家に帰りたいという願いを叶えてもらうべく黄色のレンガ道を辿って旅をする。途中、カカシやブリキの木こり、臆病なライオンに出会って4人で旅を続けるのだが、死んだ東の魔女の妹、西の悪い魔女は靴を取り返そうとドロシーたちの旅路の邪魔をするが…という話。

この話に『ミッドサマー』のキャラクターを当てはめると、

家に帰りたいドロシー=居場所の欲しいダニー
脳無しのカカシ=アホマーク
臆病なライオン=クズ彼氏クリスチャン
心が欲しいブリキの木こり=論文第一のジョシュ
願いを叶えてくれる魔法使い=ホルガ村のペレ

となるのかしら。個人的には全てのキャクターが同じレベルで当てはまるというより、ポイントごとに共通点があるという印象だが、とりあえず各キャラクターごとに分析してみましょうか。

脳無しカカシのアホマーク

おそらく、1番『オズの魔法使い』のオマージュがわかりやすいのはマークかな。

『ミッドサマー』のマークはもう悲しいくらいのアホで、いや、もはや一周して愛着さえ湧いてくるようなアホだけど、まあとにかくよく喋る。
アホなことをいっぱい喋る。『オズの魔法使い』のカカシもおしゃべりで、ドロシーに言うこんなセリフがある。

「脳無しほどおしゃべりだろう?」

このセリフは説明するまでもなくそのままマークのことも表している。カカシは頭が藁でできていて「脳無し」だから、オズの魔法使いに本当の脳みそが欲しいと願う。しかし『ミッドサマー』のマークは、脳を手に入れるどころか顔の皮に藁を詰められ、文字通り「かかし」になってしまった。この画像をよーく見ると、目や口から藁がはみ出しているのがわかる。

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それから『オズの魔法使い』のカカシは、全身が藁でできているためまっすぐ歩けず変な歩き方をするのだが、ホルガ村へ行く途中、マークは謎にダニを気にしてひょこひょこ変な歩き方をする。その歩き方もカカシそっくり!

臆病なクマ?のクリスチャン

『ミッドサマー』を鑑賞したほとんど全ての人からの非難が殺到したであろう、クズ彼氏クリスチャン。楽な方に流されてばっかりで、ダニーとも友人とも誠実に向き合うことのできない最低な男は、『オズの魔法使い』の臆病なライオンとみることができるでしょう。

ライオンは見た目のせいで怖がられていることもあるけれど、本当は臆病で、すごく怖がり。そんな自分を変えたくて、オズの魔法使いには勇気が欲しいと願う。クリスチャンのクズ加減は臆病とは少し違うのかもしれないが、全ての行動に覚悟がないことは共通している。
ダニーと別れることも、付き合い続けることも覚悟がなくて中途半端、論文テーマも深く考えて決めたわけではないからホルガ村の人々への質問が浅はか、「性の儀式」も結局流されて参加することになったし、クリスチャンを見てると1回くらいしっかりしたら!?と言いたくなる。ライオンも同じだ。うじうじしてばかりで、もうちょっと覚悟決めて頑張りなよ、と言いたくなる。

あとは…見た目?

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ほら、見た目そっくりだよ!

…というのは半分冗談で、この2人は見た目だけでなく外面と内面の乖離という点も共通している。

ライオンは先程も述べたように、本来は強くて勇敢な百獣の王のイメージがある。ムファサみたいな。でも『オズの魔法使い』のライオンは臆病で、ネズミさえも怖がる始末。
同様に、クマも北欧神話では強さのシンボルであり、ヴァイキングたちはクマを崇拝し、戦争と死の神であるオーディンの力を受けて戦うベルセルクたちはまさにクリスチャンのようにクマの毛皮を着て戦う。しかしクリスチャンはベルセルクのように強くて勇敢で、崇拝される対象でもなく、その中身はダニーに振られて当然の最低な彼氏。
2人とも強そうな外見に中身が伴っていないのだ。

ライオンは勇敢にも西の魔女に捕まったドロシーを助け出し、勇気を手に入れることができるが、クリスチャンはクズ彼氏のまま、罪を背負って最も深い地獄へ落ちるとかなんとか言われながら燃やされる。

家族の元へ帰りたいダニー

ドロシーは、一緒に暮らしているおばさんに愛犬トトを処分する、と言われたことに反発して家を飛び出す。その途中で竜巻に巻き込まれ、おばさんたち家族はシェルターに逃げ込んだものの、ドロシーは間に合わず家ごと飛ばされてしまい、オズの国にたどり着いた。だからおばさんと仲直りをするためにも、カンザスの家に帰ることがドロシーの願いだった。
一方ダニーは映画の冒頭で家族を全員失くし、恋人クリスチャンとも上手くいかず、ずっと失った家族のような居場所を求めていた。だからドロシーとダニーの願いは似ているのだ。

さらに『ミッドサマー』ではダニーがホルガ村に着いてすぐキメたマッシュルームでバッドトリップしたあげく、何時時間も眠ってしまうというシーンがある。

これは『オズの魔法使い』でドロシーを追う西の魔女の魔法で、ケシの花畑を通りかかったドロシーがその毒で眠ってしまうというシーンのオマージュだろう。マッシュルームの効果とは少し違うものの、ケシに麻薬成分が含まれているのは有名な話だ。

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心無いブリキのジョシュ?

実を言うと、『オズの魔法使い』と『ミッドサマー』のキャラクターで1番当てはめにくかったのがジョシュ。ブリキの木こりの願いは心を手にいれることだが、ジョシュには心がないのかと言えばそこまでかなぁ?という感じがする。他の2人に比べたらはるかにまともじゃん、ジョシュ。まあホルガ村の文化を尊重せず、禁止されていたのにルビ・ラダーを盗撮したのは許されないんだけど。
確かに彼にとって1番大事なのは論文で、その目的のためなら手段を選ばない的なところがあったからそういう点で心が無い、と言えるのだろうか。
適当でごめんね、ジョシュ!

ホルガ村の魔法使い、ペレ

ドロシー御一行が願いを叶えてもらうために目指すのはエメラルドの都。ダニーたち4人が目指すのはホルガ村ということは、エメラルドの都にいる偉大な魔法使いは、ダニーたちをホルガ村に招いたペレということになる。オズの偉大な魔法使いといっても実はただのおじさんなので、魔法使いらしく見せようと工夫する姿が策士のペレと重なる部分でもあるが、何よりペレはダニーの「自分を受け入れてくれる家族のような居場所が欲しい」という願いを叶えるのだ。まあ厳密には、『オズの魔法使い』で願いを叶えるのは魔法使いじゃないんだけどね。

願いが叶ったのは誰?

そろそろお気づきかと思いますが、『オズの魔法使い』では全員の願い事が叶ってハッピーエンドなのに対し、『ミッドサマー』で願いがかなったのはダニーだけで、あとの3人は願いが叶うどころか生贄として殺される

でも、よく考えて欲しい。マークもクリスチャンもジョシュも、そもそも彼らは何も望んでいないのだ。いや、スウェーデン美人とセックスしたいとか、素晴らしい論文を書き上げたいとかそういう利己的な願望はあったが、(クリスチャンに至っては何をしにホルガ村に来たのかさえ分からない)自分に欠けているものが何かを理解していない。『オズの魔法使い』のカカシ、ブリキの木こり、ライオンは、自分に足りないものが何かを知っていて、それを手に入れたいと願っているのだ。『ミッドサマー』の3人は、自分に足りないものを自覚していないばかりか、自分のことしか考えていない。それは魔法使いだって願い事を叶えてはくれない。

さらにいうと、彼ら3人は彼らに欠けているもののせいで殺されると言っても過言ではない。脳のないマークは神木に用を足し、可愛い女性に誘われたら何を見せられるのかも知らないくせにホイホイ付いていく、心(配慮)のないマークはルビ・ラダーを盗撮して一発アウト、勇気と覚悟のないクリスチャンはその不誠実さが積もり積もってダニーに生贄に選ばれる。

「変態のための」と言われる所以はここにあるのではないかと私は思う。もしも彼らが持っていないものを手に入れたいと願い、他人を少しでも尊重できる人になる努力をしていたら、彼らの運命は全く違うものになっていたのかもしれない。

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映画史における『オズの魔法使い』

さて、最後にちょっとだけ真面目に映画史の話をしましょう。
『オズの魔法使い (1939)』といえば、これまでのセピアの映画とテクニカラーを効果的に組み合わせた画期的な作品として有名だ。

テクニカラーは、その技術が確立されて以来 (最初のテクニカラー作品は1932年ディズニー制作の『花と木』である) 数年間は賛否両論で、色がまぶしくて頭が痛くなるという意見も当時多く見られたそう。しかし『オズの魔法使い』は、現実世界をセピアで、魔法のオズの国をテクニカラーで表現することにより、新しい技術であるテクニカラーの持つ特別感、そして非日常感といった効果を最大限に引き出し、テクニカラー映画を人々の間に定着させた作品であると言っても差し支えないだろう。

この、かつての技術と新しい技術を組み合わせるという演出方法は、サイレントからトーキー映画への転換期に制作された『ジャズ・シンガー (1927)』とも通ずるものがあり、さらに『オズの魔法使い』との両方の影響を受けてあの名作、『雨に唄えば (1952)』が誕生する。テクニカラー映画としてもミュージカル映画としても『オズの魔法使い』が後世に与えた多大な影響は計り知れず、映画史において重要な作品のひとつとなったのだ。

あの我らがデヴィッド・リンチも『オズの魔法使い』をモチーフとした作品を撮った監督のひとりであるのだが、それはまた別のお話。




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